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天理教婦人会の『みちのだい』2022年5月号を読んで感じたこと

『みちのだい』2022年5月号に掲載された天理教婦人会第104回総会での婦人会長のあいさつを読みました。その中で歴代真柱の言葉を引用しつつ、くり返し語られたのが「生み育ての徳分をもつ女性が、後に続く者を育ててほしい」ということでした。以下に引用された言葉を記します。

【二代真柱】
男には男の筋道、女には女の筋道、それぞれのつとめる道をお与え頂いておるのであります。(中略)
縦の布教と申しますか。子供の躾と申しますか、その上に立派にみちのだいとしての心の成人をお進め頂きたい。

創立50周年記念第42回総会

【三代真柱】
婦人会と申せば道の台、道の台と言えば婦人会、道の台ということを当初よりの道の婦人の使命として考えてきたのであります。(中略)
与えて頂いた子供が立派に道の上に役立たせて頂けるような、他日道具として働けるような信念を植え付けることに、常に限りなく心を砕いて丹精することこそ、道の台の台たるゆえんであると考えて頂きたいのであります。

創立60周年記念第52回総会

【現真柱】
導いた人が、教祖の手足となって働かせてもらえるまでに育つよう、時に応じて言葉をかけたり、一緒に行動したり、時には黙って見守りながら、心を込めて常日頃の世話取りをしていくことは、女性の徳分を活かす道ではないかと思うのであります。

2018年 第100回総会

いずれも「育てる」ということが「道の台」としての女性の徳分、特性であるということが、これでもかというくらい強調されています。
あたかも「女性こそがそれを担うべき者なのだ」と断定しているようで、間接的には「男の会長には任せておけない」と言っているように聞こえなくもありません。まあそう言われても仕方ないか。とも思いますけど。
それでも「育てる」ことは婦人会だけが眦決して行うものではなく、ポンコツ会長はじめ、世に先んじて教えを知った者みんなで取り組むべきだと思うんですよね。婦人会員以外も頑張らなきゃです。
ところで、お道の女性の皆さんはこれほどまでに「育てる」ことを強いられて、しんどくないのでしょうか?
ジェンダー平等が常識になり、男性の育児休暇制度が取り入れられるまでに変化した社会にあって「育てるのは女性」などという論は眉をひそめられる時代になっています。
幕末明治の封建社会にあって「女松男松の隔てなし」と高らかに宣言し、女性の意識を目覚めさせた教祖はどうご覧になっているでしょう。
以前『お道の女性について語ろう1』でも書きましたが、女性はあれやこれやと忙しいのです。教会の奥さんに限って言うと、女子青年さんをお手伝いさんのように使っている教会以外は大変なんですから。
男の会長は外へ出て行けますが、教会の家事や育児や雑用をこなしながら、信者さんが来てくだされば体調が悪くてもお相手しなければなりません。教会に足を運んでいただくためには常に愛想の良さと優しさや笑顔が求められます。
つまり会長以上に日常的なおたすけの現場に直面していると言っても過言ではないのです。それに夫である会長の世話だって相当に面倒なものなのですから。また仕事をもっている教会の奥さんであれば多忙さと気苦労は更に増します。
ことほどさように、教団の中にはいまだに「女は尽くすもの」という封建的風土が根強く残っているのです。

さて、婦人会長は

私たちの使命である、道の子を道の子らしく立派なよふぼくへと育てる上でどうしたら良いのか。

天理教婦人会第104回総会

と語っています。トップとしては悩ましくも歯痒いことなのでしょう。でも、冷静に考えてみると一日も早くようぼくになってもらうことを目標にしてきたが故に、人が減ってしまったとも言えるのではないでしょうか。初席を運んだだけで離れる人や、中席の途中で嫌になってしまう人が生じるのは丹精不足だけではないと思うのです。会長としての実体験から申し上げると「教えは素晴らしいし、教会の皆さんは親切で優しいけど、9回もお話しを聞きのはちょっと・・・」という方は多いのです。
『別席制度がもたらしたもの』で書いたように、別席やおさづけの理拝戴を信仰の入り口にしていては、もはや衰退に歯止めは効かなくなると思うのです。
なかなか結果が出ないことで丹精する側も疲弊し、信仰への熱を失っていくという現実も教勢衰退の一因なのではないでしょうか。
組織と制度を見直すこともなく、過去の成功体験にすがって「育てましょう」「丹精しましょう」そして数値目標にこだわった「百万会員を目指しましょう」ではもはやどうにもならない気がしております。
やはりアレですかね。「みちのだい」って言葉は如何にも女性を指すような響きがあるから、婦人会が頑張ってしまうのかも知れませんね。
でも、真柱も「道の台」が女性を意味する言葉ではないと述べております。
現真柱は2012年の婦人会総会で

男女の別はないというのは、道の台という言葉についてもいえることであります。女だから道の台というのではありません。
そして道の台というのは元来、男女にかかわらず、堅固な信仰を持ち、どのような艱難不自由ななかでも、どうでもこうでもと先を楽しんで通り切ること、また、その人を意味している。

2012年の年の婦人会総会におけるお話し

と語っております。
天理教おやさと研究所の堀内みどり氏も

中山たまへ初代婦人会長が「女やからといつていつ迄も男にぶら下つて居るやうではならん。良人の光によつて光つて居るやうでは良人が居なくなれば光らんやらう、白分で光を出さねばならん」と諭したことがらが、「女であっても道の台になる」という自律的自覚として表現され、天理教の女性信者の在り方を示すことばとなったと考えられる。「道の台」は「おさしづ」の言葉で、その意味するところは真柱の講話にもある。しかしながら、時を経ると「女は台」と言い慣わされ、教団内での女性の在り方を示す用語のようになっていた。

「道の台」と天理教の女性「宗教研究』86巻

と指摘してくれているのですが、婦人会の機関誌名になっているくらいですから、今更言っても詮無きことなのかもしれません。
それはともかく、「育てる」ことについては男女を問わず積極的に談じあい、発信し、参画していくべきだと思っています。

最後に、もう一つだけ気になったことを記します。
婦人会長は

国の教育方針の影響を受けるといこともあるのでしょう。戦後だんだんと欧米化が進む中での思想の変化もあり、昔から受け継がれてきた日本の精神というものが希薄になって、仕込みやしつけがしにくくなるというのは仕方ないことなのかもしれません。しかし信仰的な考え方、信念というものは、世上の思想や風潮に左右されずに、変わりなく伝えなければなりません。

『みちのだい』2022年5月号

と語っています。
「欧米化が進む中での思想の変化もあり、昔から受け継がれてきた日本の精神というものが希薄になって・・・」
今時、私のような昭和ド真ん中世代でもこんなこと言わないですよ。
欧米化がそれほど害悪なのでしょうか。ご自身も欧米化による恩恵を享受してきた世代のはずです。果たして「日本の精神」とは、欧米の文化や精神を遙かにしのぐほど高尚なものなのでしょうか。仮に欧米化によって仕込みや躾けという日本古来の精神が妨げられたとしたなら、日本精神などその程度の脆弱ぜいじゃくなものだったということでしょう。
個人的には日本は欧米化したのではなく、それを柔軟に取り入れ、現代日本独自の新しい日本文化と精神を作ってきたと感じております。

私の見解はさておき、欧米化を嘆くような民族主義的思考は、少なくとも教祖の教えとは相容れるものではありません。
世界いちれつ兄弟の教えのもと、欧米にも布教を展開してきた教団が口にしてよい言葉ではないと思うのですが、読者のみなさんはいかが思われるでしょう。
また「世上の思想や風潮」という、未信仰の方たちが懸命に生きている社会を見下すような表現についても、ハラハラしております。

「みちのだい」といえども、お道を知らぬ人々より優れた「選良」では決してありません。
おそらく「教団」という概念を持たぬであろう神に対して、もっと謙虚になるべきではないかと感じた『みちのだい』2022年5月号でした。

ではまたいずれ。

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