天理教婦人会の『みちのだい』2022年5月号を読んで感じたこと
『みちのだい』2022年5月号に掲載された天理教婦人会第104回総会での婦人会長のあいさつを読みました。その中で歴代真柱の言葉を引用しつつ、くり返し語られたのが「生み育ての徳分をもつ女性が、後に続く者を育ててほしい」ということでした。以下に引用された言葉を記します。
いずれも「育てる」ということが「道の台」としての女性の徳分、特性であるということが、これでもかというくらい強調されています。
あたかも「女性こそがそれを担うべき者なのだ」と断定しているようで、間接的には「男の会長には任せておけない」と言っているように聞こえなくもありません。まあそう言われても仕方ないか。とも思いますけど。
それでも「育てる」ことは婦人会だけが眦決して行うものではなく、ポンコツ会長はじめ、世に先んじて教えを知った者みんなで取り組むべきだと思うんですよね。婦人会員以外も頑張らなきゃです。
ところで、お道の女性の皆さんはこれほどまでに「育てる」ことを強いられて、しんどくないのでしょうか?
ジェンダー平等が常識になり、男性の育児休暇制度が取り入れられるまでに変化した社会にあって「育てるのは女性」などという論は眉をひそめられる時代になっています。
幕末明治の封建社会にあって「女松男松の隔てなし」と高らかに宣言し、女性の意識を目覚めさせた教祖はどうご覧になっているでしょう。
以前『お道の女性について語ろう1』でも書きましたが、女性はあれやこれやと忙しいのです。教会の奥さんに限って言うと、女子青年さんをお手伝いさんのように使っている教会以外は大変なんですから。
男の会長は外へ出て行けますが、教会の家事や育児や雑用をこなしながら、信者さんが来てくだされば体調が悪くてもお相手しなければなりません。教会に足を運んでいただくためには常に愛想の良さと優しさや笑顔が求められます。
つまり会長以上に日常的なおたすけの現場に直面していると言っても過言ではないのです。それに夫である会長の世話だって相当に面倒なものなのですから。また仕事をもっている教会の奥さんであれば多忙さと気苦労は更に増します。
ことほどさように、教団の中にはいまだに「女は尽くすもの」という封建的風土が根強く残っているのです。
さて、婦人会長は
と語っています。トップとしては悩ましくも歯痒いことなのでしょう。でも、冷静に考えてみると一日も早くようぼくになってもらうことを目標にしてきたが故に、人が減ってしまったとも言えるのではないでしょうか。初席を運んだだけで離れる人や、中席の途中で嫌になってしまう人が生じるのは丹精不足だけではないと思うのです。会長としての実体験から申し上げると「教えは素晴らしいし、教会の皆さんは親切で優しいけど、9回もお話しを聞きのはちょっと・・・」という方は多いのです。
『別席制度がもたらしたもの』で書いたように、別席やおさづけの理拝戴を信仰の入り口にしていては、もはや衰退に歯止めは効かなくなると思うのです。
なかなか結果が出ないことで丹精する側も疲弊し、信仰への熱を失っていくという現実も教勢衰退の一因なのではないでしょうか。
組織と制度を見直すこともなく、過去の成功体験にすがって「育てましょう」「丹精しましょう」そして数値目標にこだわった「百万会員を目指しましょう」ではもはやどうにもならない気がしております。
やはりアレですかね。「みちのだい」って言葉は如何にも女性を指すような響きがあるから、婦人会が頑張ってしまうのかも知れませんね。
でも、真柱も「道の台」が女性を意味する言葉ではないと述べております。
現真柱は2012年の婦人会総会で
と語っております。
天理教おやさと研究所の堀内みどり氏も
と指摘してくれているのですが、婦人会の機関誌名になっているくらいですから、今更言っても詮無きことなのかもしれません。
それはともかく、「育てる」ことについては男女を問わず積極的に談じあい、発信し、参画していくべきだと思っています。
最後に、もう一つだけ気になったことを記します。
婦人会長は
と語っています。
「欧米化が進む中での思想の変化もあり、昔から受け継がれてきた日本の精神というものが希薄になって・・・」
今時、私のような昭和ド真ん中世代でもこんなこと言わないですよ。
欧米化がそれほど害悪なのでしょうか。ご自身も欧米化による恩恵を享受してきた世代のはずです。果たして「日本の精神」とは、欧米の文化や精神を遙かに凌ぐほど高尚なものなのでしょうか。仮に欧米化によって仕込みや躾けという日本古来の精神が妨げられたとしたなら、日本精神などその程度の脆弱なものだったということでしょう。
個人的には日本は欧米化したのではなく、それを柔軟に取り入れ、現代日本独自の新しい日本文化と精神を作ってきたと感じております。
私の見解はさておき、欧米化を嘆くような民族主義的思考は、少なくとも教祖の教えとは相容れるものではありません。
世界いちれつ兄弟の教えのもと、欧米にも布教を展開してきた教団が口にしてよい言葉ではないと思うのですが、読者のみなさんはいかが思われるでしょう。
また「世上の思想や風潮」という、未信仰の方たちが懸命に生きている社会を見下すような表現についても、ハラハラしております。
「みちのだい」といえども、お道を知らぬ人々より優れた「選良」では決してありません。
おそらく「教団」という概念を持たぬであろう神に対して、もっと謙虚になるべきではないかと感じた『みちのだい』2022年5月号でした。
ではまたいずれ。