「研究者の本分を忘れても楽しく生きられる研究者」への憤り

 最近関わっている人たちの国プロの進め方や、研究開発への取り組み方について、どうしても割り切れない感情を抱えている。

 簡単に言えば、「最低限組織から求められたことをやれば、それで十分」あるいは「関係する人から求められることをやれば、それで十分」という態度が、研究者としての本質的な責務を切り捨てているように感じるのだ。
特にやらなくても罰はないが、「「これはやるべきだ」という研究者の本分」に背を向ける姿勢に対して、強い憤りを覚えている。

 大学教員として研究者の本分を果たせているか、といえば自分にも刺さるわけだが、新年を迎え、今年一年の自戒ともするため、この感情を整理・分析し、なぜ自分がこのような憤りを感じるのかを論じていきたい。

この記事で考えたいこと

研究者が果たすべき本来の責務を果たさず、外部の形式的な基準だけを満たして生きているという状態に対する自分の憤りの理由を掘り下げる。「研究者としてやらなければならないこと」がなんなのか、そして、それが満たされないことで何が欠落するのかを考察する。
以下、まず研究者としての本分について掘り下げ、そのうえで組織のKPIや助成金の要件が、研究者の本分とどう関係しているかを議論してゆく。

研究者とは

 研究者とは、「未来の人々が『ちょっと気になること』について、信頼に足る形で答えを残す人」ではないかと思う。

 『ちょっと気になること』というのは昔で言えば「天体の運動」、最近では「核融合を安定して継続させる方法」といった問いである。これらは人類の存亡に関わる可能性もあるが、そうではなく「どんな形のデスクライトが好まれるのか」といった日常的な問いもある。

 そして、その答えを「信頼に足る形」として残すとは、例えば論文や多くの人に評価される書籍といった形で記録することである。(この点で報告書や学会発表は一段信頼性が低いといえるが、それは後述の問題と関連する。)

この視点を整理すると、研究者の責務は以下の3つに分類されると考えた。

1.未知の問いへの挑戦
 新しい疑問を提起し、その解答を得るために知識を生み出すこと。知識が一時的に個人の中で閉じている場合でも、その価値は変わらない。2と両輪である。
2.検証可能な形での成果の共有
 知識を成果としてまとめ、信頼に値する形で公表すること。「検証可能性」を担保することが重要であり、その代表的な手段が論文である。
3.挑戦と成果発表の土台の確保
 これは1と2を実現するための従属目的である。未知への挑戦やその成果を発表するためには、金銭や時間といったリソースが不可欠である。研究者はこれを確保するために、必要な環境を整える責務がある。大学教員としての職を得る、研究所に所属する、あるいは企業を立ち上げてファンドを獲得するなど、具体的な手段は問わない。肩書も重要なので、意外と難しい。ただし、これらの活動そのものはあくまで「未知への挑戦」と「成果の共有」を達成するための手段に過ぎない。

 以上、私が考える研究者とは、①「未知の事象」を明らかにし、②その成果を論文を代表とした「信頼に足る(検証可能な)形」で後世に残す人である。

 補足として、未知の事象がどれほどの人類を救おうが、組織にどれだけの利益をもたらそうが、それ自体は研究者としての価値を左右しない。研究者に必要なのは、未知に真摯に取り組み、その結果を信頼に足る形で記録することだけだ。

私が憤りを感じる状況の整理

 私が思う研究者とは、前節で述べたように、「未知の事象に挑み、その成果を信頼できる形で残す人」である。この定義においては、組織の求める役目を果たし、助成金によるプロジェクトを遂行することが必須ではない。

 それにもかかわらず、実際には組織に対する役目と助成金プロジェクトの遂行に追われ、そのリソースが全て埋まってしまう研究者がいる。この状況こそ、私が憤りを感じる理由である。

組織の求める役目とは

組織における「役目」とは、主に次のような活動を指すだろう。

・出勤し、組織が与えた研究テーマに基づいて実験やシミュレーション、資料作成を遂行すること。
・外部への発表や組織内での成果報告、コミュニケーションを行い、組織の一員としての責務を果たすこと。


厳しい組織では、論文数やインパクトファクター(IF)が評価基準となることもあるが、一流大学でもなければ、特にパーマネントの構成員の場合、論文数やIFはそれほど重視されないことが多い。むしろ、組織運営を支え、外部に対して組織のメンツを保つ活動が求められる印象だ。

助成金プロジェクトの現実

 助成金によるプロジェクト、特に数千万、数億円以上のプロジェクトでは、リソースの多くが「大規模な実験やシミュレーション」と「形式的な報告」に充てられ、研究者が論文執筆に割ける時間は限られる。

 私自身の経験では、大規模なプロジェクトにおいて数千万円規模の実験をデータ解析から取りまとめまで一人で実施すると、データの取りまとめや報告書の作成といった作業で手一杯になることがほとんどだった。その結果、学会発表は最低限行うものの、論文執筆まで余力が回らないという事態が発生する。

 この背景には、助成金の性質がある。助成金の目的は、あくまでプロジェクトの円滑な執行であり、形式的な目標達成を示す報告書や報告会が重視される。一方で、論文発表は必須事項ではないため、結果として「信頼に足る形での成果の共有」が後回しにされる傾向がある。

「研究者の責務」と「組織や助成金の求めるもの」の乖離

 以上の通り、組織や助成金が求めるものは、形式的な調和を重視しており、研究者が果たすべき本来の責務とは乖離がある。もちろん、もともと組織や助成金は、「研究者の責務」の遂行を後押しする仕組みとして存在していたはずだ。しかし現実には、研究者の本分とは異なるKPIを用いて評価するようになっている。

それぞれの要素の整理・分析

 ここまで、研究者の責務と組織や助成金の求めるものとの間にある乖離について議論してきた。
では、これらがどのように重なり、どこにギャップが生じているのかを可視化するために、次にベン図を用いて整理してみたい。
研究者としての本来の責務、組織のKPI、助成金の要件それぞれの要素は以下の通りである。

研究者本来の責務(従属目的である研究基盤の確保は除外した)
 ・未知への挑戦
 ・検証可能な形での成果の共有
 
組織のKPI
 ・成果の形式的達成(実験の遂行や学会発表の実施。IF等の質は問わないことも多い。もちろん新しい要素がなければそれすらできないので、「未知への挑戦」とは重なる。)
 ・組織運営への貢献(内部報告会や成果発表会など。組織のメンツを保つ活動。)
 ・予算執行の正確性

助成金の要件
 ・目標の形式的達成(計画通りの進捗を示す報告書等)
 ・成果の可視化(報告会や成果発表会)
 ・円滑な予算執行(未使用や超過の防止)
 ・具体的なインパクト(実用化、社会的意義、技術移転の可能性)

同族性のものをベン図の共通部分に書くと、以下のような図になると思われる。

研究者の責務・組織のKPI・助成金の要件の構成要素

 組織のKPI、助成金の要件、そして研究者の責務がすべて重なるところは、せいぜい「未知のことへの挑戦」、つまり「何らかの新しいことをやる」というところだけである。
「未知のことへの挑戦」とは、たとえば新しい実験手法を試みたり、新しい視点で既存のデータを解析したりすることだ。しかし、これらは研究の一部であり、研究者の責務全体を代表するものではない。

 留意すべきは、研究者の責務の中でも特に重要であり、成果物と直結する「検証可能な形での成果の共有」が、組織や助成金の要件には含まれていない点である。もちろん、反論として「検証可能な形での成果(論文)を組織の要件として重視している場合もある」という意見もあるだろう。しかし、少なくとも私自身の経験に基づく体感では、この図が現実である。言い換えれば、組織や助成金の枠組みだけに依存していると、研究者としての本分を果たす活動が置き去りにされるリスクがあるということだ。

 一方で、組織のKPIにだけ属する「組織運営への貢献」は、確かに褒められることが多い。大学教員である私は、委員会や研修会への参加、オープンキャンパスの企画や公開講座、出前授業、もちろん授業も含め、多くの組織的な役割を担っている。その中には、たとえば「既知の事柄に関する演示実験」や「研究とは何かを語る」といった、一見研究者の活動に見えるが、未知の成果を切り開くこととは関係ない活動も含まれる。関連する話として、数学者の岡潔は『人を相手に学者になるのは易いが学問を相手に学者になるのは大変』と語ったと言われるが、これも同様の状況を的確に表しているだろう。

置き去りにされる「研究者の本分」

 組織人としての責務や助成金の円滑な遂行には、研究者の本質的な役割である「検証可能な形での成果の共有」が必ずしも必要ではないことが整理できたと思う。
 
 もっと言えば、「組織のKPI」や「助成金の要件」を満たすことで、多方面から褒められたり感謝されたりするうちに、それらの充足感や達成感が人生の目的になってしまい、研究者としての本分である論文執筆や知識の共有といった活動から次第に遠ざかる危険性もある。これは、私自身も経験していることであり、大きな課題だと感じている。人からの感謝は麻薬である。

打開策は「自分の分をわきまえる」ではないか

 ここまでの整理で明らかになったのは、組織のKPI達成や助成金の円滑な遂行が、研究者としての成果を直接的に上げることにはつながらないという現実である。

 では、どのように折り合いをつけるべきか。これは個人の価値観や状況によって異なるだろうが、私が恐れ憤るのは、研究者としての成果を出せない状況に慣れ、現状に甘んじることである。組織に貢献し、大型プロジェクトを回しているうちに、あたかも「人生がうまくいっている」と錯覚してしまう。これでは、本質的な研究者の役割を果たしているとは言えない。

 私の考えとしては、まず組織のKPI達成や大型プロジェクト獲得、共同研究の件数を増やすといった、研究者本来の活動に直接つながらない要素を削減することである。つまり、自分の分をわきまえて、不必要に大きなことをやらないということである。それが難しいという人もいるだろうが、やろうと思えば不可能ではない。必要に応じて所属を移す、あるいは組織での立場が悪くなるリスクを負うこともあるかもしれない。しかし、それでも重要なのは、研究者としての本分を守り続けることである。そのプライドがなくて何が人生か。

まとめ

以上、研究者としての責務と、組織や助成金が求める役割のズレについて語ってきた。日本の研究の質が下がっていると言われる背景には、研究者が分不相応に助成金を獲得し、その執行や広報活動に多くのリソースを割いてしまう現状があるのかもしれない。かつて研究を後押ししていたはずの組織や助成金が、現在では研究の本質にそぐわない仕組みとなっている可能性も指摘できる。極端に聞こえるかもしれないが、資産運用による個人資産や全く関係ない事業で増やした資産を研究費に回すような仕組みが、純粋な研究を可能にする新しいスタイルとなる可能性もある。いずれにせよ、研究組織の構成員としての責務を果たすだけでは「研究者」としては不十分で、大学教員も、研究員も肩書に負ける。研究者として胸を張るには、自律した態度が求められるのだろう。

いいなと思ったら応援しよう!