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鏡でしかなかった

結局のところ、何もわからなかった。

その人の名も。
何が本当で、何が本当ではなかったのかも。
誰は実在し、誰は虚構の産物なのかも。
さらに言えば、全てが本当にあったことなのかも、
無かったことなのかも。


その人が僕に割り当てた役は男性ではなく、それどころか人間でさえなかった。
舞台に据えられた小道具の鏡でしかなかった。

僕は鏡の割にはよくしゃべった。
それが僕に与えられた役割でもあったからだ。
ただ、お伽話に登場する
「世界で一番美しいのは、あなた様です」
なんて偉そうな口を利ける鏡ではなかった。

その人のとびきりの美しさと才能を、
そしてその内に秘めた醜さや、
心の底にぽっかりと空いた空虚さを映し出しもしたが、
前者を称賛するのは許されても、後者について語ることは許されなかった。整合性に疑念を抱くこと、それに纏わる問いさえも裏切りとして捉えられ、説明が得られることは無かった。

鏡は心を持っていない。
好意的ではあるが恋をしない。
そんな役柄が与えられた。
かつて僕は人間では無かったので、
そのまま生き続けていれば演じられたかもしれない。
しかし、僕はすでに人間になっていた。
ともすれば鏡の役から逸脱しようとする僕に、その人は苦労したことだろう。
飴と鞭を使い分け、その役に留め置こうとした。


もう既に遅かったのだろう。
周囲には埋めなければならない穴は無数にあった。
いくら埋めても埋まらないどころか、
残された穴が再び大きく、深くなっていった。
「可哀想な自分」は、この上なく心地よいのだから。

僕が機械ならば、それらを文句も言わず粛々と埋め続けられたことだろう。
しかし、もう機械では無くなった僕には、次から次へと空いた穴を見せつけられるのは苦痛を伴った。
僕はついに音を上げた。
その人は諦めた。
代わりはいくらでもいるのだから。

本当は、その人は他人がそれらの穴を埋められないのを知っている。
自分しか埋められないのも知っている。
ただ、他人が穴を埋めようとする姿を眺めるのが好きなんだろう。そこに安心感を求めていたのかも知れない。しかし、自分が傷つけられたからと言って、その代償として周囲の人を傷つけて良いことにはならない。

ここまで悪く書いてきて今更だけれど、僕は未だにその人を嫌いになれずにいる。不幸な条件が揃えばその人にだけでなく、おそらく誰にでも起き得ることなのだから。

本当のことを言えば、今でも好きなのだと思う。

残念なことに。


いない人を探していた。

咳が止まらなくなった。
眠れなくなった。
身体が痛い。
咳が止まったら、やっと眠れるようになった。
今度はそれまでの分を取り返すように目覚めていられなくなった。
睡眠障害が改善した訳ではなかったのだ。
自分の無力さを痛感させられただけだった。

どこにも見つからない。


この記事は宮内悠介 著のSF短編集『超動く家にて』(創元SF文庫)に収められている「アニマとエーファ」に触発されて書かれたものであることを記しておく。


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