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#055_240311 訪問看護の様子がおかしい…(2)

訪看、第1部、完遂…
よく話を聞くと、どうやら、事業所内で異動もろもろ大きく組織が動いて大変らしい。急な予定変更でもしていないとやれない事情がおありなようだ。担当者を責めるのは得策じゃない。

知己も私と同じ心配をしていたけど、知己も私も訪問で支えていただいてようやく生きていけている…自立できないのは自己責任だという囁きはあえてスルーする。

自分が何でこんな病気になってしまったか?との自問自答に、以前は「単に自分の能力不足、努力不足」と自分を責めるばかりだったけれど、人生の半分以上を「病人」として生きてみて、社会情勢との関連性なくして、こんな病気にはなり得ないという気もしてきた。どうりで優秀な知己は黙って海外へ留学や就職を決めて移住してしまうはずだ!病気になってからでは遅い。さすが、賢い人は違う!

私は22歳の時に英語を教える仕事でキャリアを始めた。最初のフィーが一番高額だった。バブル全盛期だったことが追い風だった。けれど、30歳頃からフィーはどんどん安くなり、睡眠時間以外はほとんど働くという長時間労働をしても、追いつかなくなった。過労で倒れ、救急車で運ばれたことを今となっては「もう、その仕事、辞めてもいいよ」との救いだったんじゃないかと思う。肺炎だった。

肺炎はすぐに治り、10日間ほど入院し、退院後はそれでも半年くらいはその職場を辞められなかったけれど、半年後には退職。傷病手当金を受け、自宅療養した。

その後、別の職場の国際交流事業の仕事に復帰したものの、今度は雇用が不安定だった。任期付きポジションだったり、ハラスメントで仕事を与えられない上に最悪、辞めさせられたりした。再度、某組織の国際交流関連部局の公募に応募した時、その中にいる人に「その歳まで出来レースを仕込んで貰える人脈を築いてこなかった自分を悪いと思え」と言われ、この街は実力では生きていけない、もう就職活動はしないと見切りをつけた。

22歳で初めて働き始めてからのことを振り返って、私の病状と日本の経済、雇用問題は切っても切れない。「お父さんが生きていたら…」と他人は言うけど、父がもう少し生きていても日本経済の衰退に巻き込まれるのは免れられなかった。生活困窮のたび、人生の節目節目で生活の規模を縮小する決断を下せたのは「経営者の父」に育てられたから。だから「もう少し長生きしてくれれば!」みたいな発想で現実から目を逸すつもりもない。

今回、訪看さんの異変に気づいて、ふと考える機会を得た。事業所の統合や異動といった事業所の経営状況や事業所内で起こるいろいろなことが利用者の私にも影響するな、と。それでも今後もサービスを受けられる(であろう)ことをありがたく思うところなのかもしれない。けど、精神疾患はとにかく理解を得ることが困難。訪問日時の変更でさえ、ビビったのに最悪、担当者が変わるとなるとまた、最初から理解を得なければならない。コストはお金だけではない、労力も…私は確実に歳をとっており、年々、気力は衰える。

実は昨年、主治医も変わった。この主治医が医学だけに専念してきたようで精神疾患の背景に社会課題が複雑に絡んでいる、と言ったことに疎い(気がする)。だからこそ、訪看さんのフォローが重要。かつて「働く女性」としていろんな困難と戦った私の経験は訪看さんにとっても役立ててもらえているようだ。

事業所統合については何も言えない。けれど、これまでと変わらぬ品質でサービスを受けたい。そこだけは切に切にお願いする。事業所統合や異動がどうか「ボタンの履き違え」にならないことを祈る。

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