原因と責任の関係について
注:この記事は過去に「ミニ地球世界のプチ神様を目指して」に掲載したものですが、誰もそんなもん読んでいないと思いますので再掲します。
例えばのび太が車にはねられたとして、その原因ってなんなのでしょうか?
①冬の寒い日で、車のブレーキが効きにくかった。
②のび太は運悪く足を骨折していて、松葉杖をついていた。
こういう事実があれば、普通の日本語の意味で、①と②はそれぞれ原因のひとつに数えられます。
しかし、次のようなものは、普通は原因として認めない人が多い気がします。
①となったのは、日本が赤道から遠いからだ。
②となったのは、先週の草野球でジャイアンの出した走塁の指示が無茶だったからだ。
まあ、これくらいならまだしも、
③そもそも自動車が存在したからだ
とか
④人間が存在したせいだ
とか
⑤ビッグバンで宇宙が始まったせいだ
とか言われても困ってしまいます。しかもこれ、ただ単に正しいかどうかだけを問えば、正しいとしか言いようがない。
原因という言葉には、とんでもない曖昧さがあるのです。
では普段、私たちはどのように原因を理解するのでしょうか。
私はこれは、主に3つのアプローチをとっていると考えます。
まず、時間的に因果関係を遡れてしまうということに対して、直前のものだけに注目するという原則。
それから同時的に存在する原因に対して、多くの事例を比較して擬似的な対照実験を想定し、多くの事例に登場する原因を、真の原因などと見なす。あるいは逆に、特異的な原因をやり玉にあげるわけです。
2つとも、論理的な正当性はありません。私たちの思考の癖に過ぎないと思います。
そして3つ目ですが、ルールによって、誰が悪いのかを決めるという方法です。
⑥のび太は、スマホ操作に夢中になって赤信号に気づかなかった。
みたいな説明ってすごく説得力を感じないですか? でもこれ、本当に自動車が存在したからという説明より優れているんでしょうか? ルールというものも、恣意性の固まりです。それは決して原因の説明として優れてはいません。
⑦車の運転手に運転ミスと呼べるものは何もなかったが、多量に飲酒していた。
こうなると、圧倒的に運転手が責められますよね。それが間違っているわけではないけれど。飲酒運転を厳しく取り締まることは大賛成だけれど。
大切なのは、今より上手くいく方法。それと原因や責任は簡単に解離してしまうし、暴力的に誤用されうる。
何が言いたいかまとめると、
その1 物事の原因は真面目に考えれば無限にあって絶対に特定できない
その2 責任はルールによって便宜的に生み出されるものであり、原因とはあまり関係がない
その3 私たちは、自動車が存在する世界で生きていきたい。そのために巧妙なルールを生み出し、改善し続ける必要がある。たぶん、物事をうまく解決できる因果関係のポイントを見つけたとき、人はそれを原因呼ばわりして、責任を負わせる。そこに、論理的正当性も倫理的正当性も知性も存在しない。
はたして、これはのび太の交通事故にだけあてはまる考察でしょうか?
追加:これは子どものころからずーっと思っていたことを、何かのきっかけ(元嫁さんとの口喧嘩を思い出してとか)でブログの記事にしたものです。生成AIにきいてみたところ、哲学者のヒュームが同じようなことを書いているそうですが、これは完全に私のオリジナル思考の産物です。