悠々として急げ。Festina lente.

 先日、『悠々として急げ 開高健対談集』(開高健著・日本交通公社刊・1977年初版)を読みました。書店社員から学者、デザイナー、酒造主人、作家など、12人との対談が収録されています。12人目の対談相手は作家の開高健(タカシ)です。開高健(ケン)が健(タカシ)と対談するという趣向になっています。
 第1回の対談の前書きに「悠々として急げ」の由来が書かれています。「ある王様の治政の座右の銘だったと伝えられる」ラテン語の「Festina lente(フェスティナ・レンテ。急がば回れ、ゆっくり急げ、良い結果により早く到るためにはゆっくり行くのがいい、というような意味)」が紹介されおり、これを名コピーライター開高健が「悠々として急げ」という名言にアレンジしたようです。開高健は、王様だけでなく「庶民の日常の必須心得ともしたいのである」と記しています。同感です。王の治政だけでなく庶民の人生にこそ、大切な教訓です。ちなみに王様はローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスだそうです。
 秀逸なのは、やはり最後のセルフ対談です。この中で「(タケシ)論争ではけんかになっても、友情は完全に保持出来るという、おおらかさとゆとりがないんじゃないかしら。(ケン)措定と反措定がないよな、難しい言葉でいって」。これはまさに現代のSNSにおける、ある種の炎上しがちな閉塞感を予言しています。また交流のためのツールやスキルが進化しても、送り手と受け手の本質は1970年代と比べて進化していないことを再確認させられます。開高さん、進化すべきはツールではなくて人間の方なのですね。
 さらに後半で(タケシがスペイン人の言葉を引用しながら)「死んだ直後の人間は生者であるか死者であるかまだ境界が朦朧としているわけだ。死人らしくなるのに三時間かかるということでしょ。(中略)三時間とふんだところが精確だと思う」。なるほど、3時間なのか。
 私は別のnoteの記事で「もう生きてはいないが、まだ死んではいない。医学的(生物学的)には、そのとき何が進行しつつあるのか私にはわかりません。もちろん霊魂についても、私には何もわかりません。ただただ、不可逆的に死に向かいつつあるものを目の当たりにしている、という印象でした。それは、とても新鮮であり(申し訳ありません)、生と死の貴重な学びの体験にもなりました。」と書きました。たぶんその曖昧さが消えるのが、3時間ということなのかもしれません。妙に納得しました。

追伸

 開高健の死後に奥さんの牧羊子が編集した『悠々として急げ』というタイトルの追悼集があります。今度は、そちらも再読したいと思います。


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