ベストを尽くせば後悔はしない。If you do your best, you won't regret it.
私は3人の上司に恵まれました。星野さんと遠藤さんと坂中さんです。星野さんと遠藤さんについては、既に別の記事で書きました。星野さんは亡くなりましたが、奥さんとは親しくさせていただいています。遠藤さんは存命のはずですが、連絡先を書いたメモを紛失したため連絡できません。FacebookやTwitterもインスタグラムも、そういうことをするような人でもないのでSNSやネット上で見つけることも困難です。共通の知り合いの連絡先も不明のため、旧交を温めることもできません。遠藤さんはそんなことを望まず、私の存在は忘却の彼方でしょうが。
さて今回は、坂中さんです。坂中さんとは16年前の冬から秋まで、ある商社の子会社の倉庫で、作業員として一緒に働きました。自己都合で前社(コピーライター)を辞めて、特にこれといって資格もない私が勤められるのは、倉庫の軽作業くらいでした。待遇は契約社員(バイト)です。主に私の仕事はカーテンの生地を、注文に応じて裁断すること(これには正確さは求められますが、重労働ではありません)。裁断を教えてくれたのが上司で社員の坂中さんです。他にも、もちろん仕事はあります。いろいろ教えてくれました。朝は積み荷を満載したトレーラーから積み荷を降ろす荷受け作業、受けた荷物をフォークリフトで所定の棚に保管する作業、夕方は注文に応じて荷物ピッキングして梱包して積み込む作業など。住宅リビング(カーテン、カーペット、タオル、パジャマ、肌着、などなど)の繊維関係の荷物が多いので、一つ一つはそれほど重くありませんが、大量にさばくとなると、非力な私には重労働でした(フォークリフトが運転できない私の場合は、すべてが人力です)。
坂中さんは、誰でも知っている偏差値の高い大学の法学部を出て、司法試験の勉強をしながら、倉庫作業の仕事をしていました。裁判官を目指していたそうですが、試験に落ち続けていました。当時20人くらいいた作業員の中で、大卒は倉庫責任者の課長と坂中さんと私だけでした。私はともかく、高学歴の坂中さんが、こんな倉庫(失礼ながら)で働いていることに、疑問を持ち質問したことがあります。「お前な、こんなところだ、と思った途端に人は学びを忘れる。どんなところでも成長できる。成長したいと思えば」。私の心を見透かされたようでした。「大学時代の友人から、塾の講師をやらないかと誘われる。とてもいい給料で。何度も誘われて何度も断っている。夜は家族と一緒にいたいから」。坂中さんは(文句なしに本社も一目置く)仕事ができる人でした。体力的な面はもちろんですが、人に教えたり、人を動かすという、コーチングやマネージメントの面でも、誰よりも優れていました。「部下が馬鹿だから、と嘆く上司は、その上司が馬鹿だ。与えられた部下と与えられた環境下で、より大きな成果を上げるのが上司だ。部下を馬鹿だというなら、上司は自分が部下よりも、圧倒的に優れていることを証明しなければならない。その逆も、あり得る。上司が馬鹿だとしても、上司が馬鹿なら、部下として馬鹿でないことを証明するために、上手く上司をコントロールしなければならない。成果が横取りされる? そんな成果なんて上司にくれてやれ。そもそも、常にベストメンバーで、常にベストな環境と設備で、いつも仕事ができると考える奴は大馬鹿だ。それができない現状を嘆く奴も同レベルだ。嘆いて何になる? 嘆く前にベストを尽くせ。与えられたものをフルに活用できないで、人が足りない、物が足りない、金が足りない、何てのは百年早い。知恵が足りないだけじゃないか」。当然、坂中さんには誰よりも仕事が集中して、それをこなす坂中さんは、ますます忙しいのですが、いわゆるうまくさぼる人も同僚や先輩連中の中にはいるわけで。そういうのは、不公平じゃないですか?と糺すと「どこが? どこが一体不公平なんだ? 忙しい奴は損をしているのか? さぼる奴は得をしているのか? 俺と奴らの給料がほとんど変わらないから、俺が損をしている? 俺は全然そうは思わない。さぼりたい奴はさぼればいいさ。それで楽して得したと思えばいいさ。きっと、それだけの人間なんだから。俺は嫌だね。そんなところで、そんな楽なんかしたくない。それは自分で自分を駄目にしていることだ。そりゃあ俺も残業はできればしたくないけど、求められる仕事でベストを尽くすだけだ。一日が終わって寝る前、一生が終わって死ぬ前、やるだけやったから、悔いはない。そんなふうに思いたいだけだよ」
私たちは二人とも1962年生まれでした。坂中さん(和歌山生まれ大阪在住)は3月で私は10月(新潟生まれ大阪在住)なので学年は1つ上。不思議なことに私たちは奈良県立美術館でムンク展(1982年1月から2月に開催)を鑑賞しています(坂中さんは東京の大学から帰省した1月に、私は京都で大学を受験した合間の2月に)。私たちは時期が微妙にズレていましたから出会うことはありませんでした(出会っても見知らぬ同士です)が、奇妙な偶然ではあります。他の共通点は、ともにB型で寅年。ともに理数系ではない(法学部と文学部)なのに数学好き。それから一澤帆布を愛用しているところ。
私たちは休憩時間には「事件」について、度々語り合いました。最近起きた事件について、それまでの判例集を基に、検事と弁護士になって討論するのです。すると多面的なものの見方や今という時代や司法の歪みを見つけることができました。特に坂中さんが強調していたのは「最高裁判所の裁判官の国民審査に真剣に取り組め」ということでした。「最高裁判所の裁判官の罷免を有権者が投票で審査できるのに、過去に、誰一人も罷免されたことがないのは、どういう意味だ? 投票用紙に✖をつけるとは、どういう行動なのか? わざわざ✖をつけるのは、確かに違和感があるとしても。ネットで、その裁判官の判決を知ることができる。調べてみて、それでも✖をつける裁判官がいないという有権者の判断なら、まだわかる。それも立派な意思表示だから。でも、お前がそうであるように、大抵の有権者は裁判官のことなんて知らない。関わった事件も、下した判決も、一切何も知らない。それでいいのか? そういう有権者の怠慢や思考停止が、たとえばキナ臭い世の中を招くんだよ。それじゃあ最高権力者の思う壷だ。忘れるな。」
追伸
坂中さんは、夏のボーナスの出ないバイトの私に、焼き肉を奢ってくれました。「肉だけ死ぬほど食え。野菜なんて頼まなくていい。その分、肉を食えよ」。おいしかったです、今でも覚えています。私の残業代不払いの件を、課長と交渉の末、支払うように解決してくれました。ありがとうございました。それから、私は自身の待遇改善(時給アップ、契約社員から社員への昇進)で課長ともめていたことがあり、坂中さんが間に立ってくれて、課長に進言してくれました。「俺以上に働くし、仕事ができるのに、契約社員のままでは間違っている」と。最後は坂中さんの進言も空しく却下され「課長も自分が可愛いから、本社に睨まれたくないから、弱腰で。自分の首を賭けてでも、お前を社員にすべきなのに。それが本社も含めた全体の利益になるのに。それがわからないんだから課長も大馬鹿だ。本当にすまなかった。力足らずで。すまん」と頭まで下げてくれました。結局ごたごたがあって、私は1年も持たずに辞めるわけですが、坂中さんが私の仕事ぶりを認めてくれたことが、最高にうれしかったです。私が辞めてからは、年賀状のやり取りが続いています。その後、私が部下を持った時には「坂中さんなら、どう行動するか」を常に考えていました。
私が倉庫を辞めてから3年後、偶然、坂中さんを駅で見かけました。坂中さんは私には気づきません。当時、私は派遣社員として印刷会社の校正をしていました。それから7年後、私は出版社のライターを辞めて、昔の伝手を頼りに「何でもいいので仕事を紹介してください」と恥を忍んで手紙を何通か書きました。返事は、同情されたり、叱責されたり、無視されたり、まあ当然の対応でしたが。その中でも、坂中さんから届いた返事の封書は秀逸でした。ただ一枚の紙に数字の羅列のみ。それは私が初めて目にする坂中さんの携帯番号でした。すぐに電話すると週末に会うことになりました。お互いの近況を交換し合い(あの倉庫の親会社の商社が潰れて、坂中さんは倉庫の得意先(仕入先)に高給で引き抜かれたそうです。納得です。倉庫の神様はいます)、それから私の就職の話になりました。結論から言えば私が次に決めた仕事は、坂中さんからの紹介ではありませんでしたが、ただ会ってくれただけでも嬉しくて、勇気と元気をもらい、励まされました。