君だけじゃダメみたい。 〜 Then only us. 〜

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TITLE:
君だけじゃダメみたい。
SUBTITLE:
~ Then only us. ~
Written by BlueCat

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 この文書はセックスや暴力、虐待、自己否定感についての記述があります。

 精神的ストレス耐性の低い方が読むことで、強い不快感や嫌悪感、不安、恐怖、孤独や絶望を発生させる恐れがあります。
 精神的外傷やそれに類する精神的圧迫感があり、それが完全に治癒していない場合や対処法を身に付けていない場合、また現時点で不安や孤独感を感じている方などは読み進めないことをおすすめします。
 途中で、冷静な気分を保てなくなった場合は、どうかただちにこのページを閉じて、自分の心を休めることに注力してください。
 あたたかいココアでも飲みながら、猫の画像とかをWebで拾って眺めると良いのです。

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 4日間ほど自己嫌悪していて、しばらく口がきけなかった。
 もとより僕は自己嫌悪や自己憐憫というのをほとんどしない。
(初めて猫を殺したときに自己嫌悪をした気もするけれど、記憶が遠くて思い出せない。)

 それらはナルシシズムだからほとんど何の役にも立たないし、他者の害になることはあっても利になることはまずないと思っている。
 しかもナルシシズムの中でも格別醜悪なのがそのふたつだと認識している。
 自分の肉体美に酔っているくらいの方がまだ健全だ。
 とにかく自己嫌悪と自己憐憫はいずれもナルシシズムの一形態ではあるが、本来的な「自分好き」とはほど遠い。
 だから、自己嫌悪した(あるいはしかけた)自分に対して僕はひどく驚いて、自己嫌悪する自分に自己嫌悪しそうになった。
 自己嫌悪無限ループ。
 まさにナルシシズムの極致。
 いやだよそんなの!

 たしかに僕は「自分好き」である部分も含めて自分を好きだけれど(そしてときどき他者からナルシストだと言われるけれど)実のところナルシシズムは好きではない。
 だってそれはただの陶酔だから。
 酔っ払いの錯覚だから。
 湾曲認識だから。
 曲解であって思い込みであって現実逃避だから。

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 モテというのは技術だ。
 だからそれは才能や体質や生い立ちや性別や学歴に関係なく身に付けることができる。
 老若男女は関係ない。
 若い人には若い人の魅力があり、老いた人には老いた人の魅力がある。男には男の、女には女の魅力がある。
 美しい外見には美しい外見の、醜い外見には醜い外見の魅力が(たとえ本人が無自覚であったり否定的であったとしても)存在する。(そもそも美醜はどこまでも個人的な感覚だ)
 身に付いた技術は磨くこともできる。
 基礎を覚えて応用を編み出すこともできる。
 先端の何かを取り込むこともできる。

 でも、僕は忘れていた。

 技術は、すべて諸刃の剣だ。
 たとえばナイフは果物の皮をむくこともできるし、人を刺し殺すこともできる。
 たとえば車で遠くに行くこともできるし、人を轢き殺すこともできる。
 重機で建物を作ることもできるし、人を圧殺すこともできる。
 火薬で花火を作ることもできるし、爆弾を作ることもできる。
 塩でも砂糖でもアイスピックでも玉ねぎでも。
 はたまた靴ひもだろうと蜂蜜だろうと食器洗い洗剤だろうとチョコレートだろうとなんだろうと、それで何かを殺すことができる。
 つまりは使い方次第で。

 使い方を間違えてはいけないのだ。
 でも僕は間違えたのだ。
(アライさんではないのだ)

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 気が付くと僕は自分がヤリチン(下品な表現で申し訳ないが、蔑称として考えればやむなしと認識した)である(あった)ことに気が付いた。
 もちろん恋愛感情というのは、双方向性がなければ(片思いになってしまって)成り立たない。
 だから相手も僕に何かを求めてこそ成り立つのではある。
 当然、僕も相手を求めた。その半分は立証実験として。

 そして理屈が立証され再現性を確認するうちに、僕は自分がモテなのだと錯覚した。
 ヤリチンになって、ナルシシズムの領域に踏み込んで、自分の陶酔のために相手を利用した。
 少なくともそういう側面は否定できずに存在した。

 モテというのは定量化できない。
 様々な知識や技術や能力や性格や弱点や劣等感や外見、意識や感情や認識の傾向。
(「劣等感」は一般に認識されている「コンプレックス」という名詞で呼んでもいいのだけれど、本来の言葉の意味とは異なる日本特有の方言であり、厳密な「劣等コンプレックス」の表記は長たらしいのでいずれも僕はなるべく使わないようにしている)
 そうしたものから複合的にできあがっていて、なおかつテストの点数のように0〜100までが直線的に並んでいるわけではない。
 受け取る側との相性で、まったく同じ特徴が利点になることも欠点になることもある。
 だから恋人の数が多いからといって、それが男として(あるいは女として)優れていることにも魅力的であることにもならない。
 技術的観察対象が多いことはサンプリングとしては優位だけれど、逆にいえば相手と自分の関係をサンプルにしているということになる。
 ある意味、相手に失礼な行為だ。

 なにしろナルシシズムは(ごまかしたり、他者をエサにする点で)褒められたものではない。
 それに他人を自分の道具にすることは(お互いの了解の上で「遊び」としてするのでないかぎり)たとえ相手がそれを望んでいるとしてもあまり良いことではない。
(なぜならその望みもまたナルシシズムに起因しているから)

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 ナルシシズムが嫌われるのは、自分自身を好きだから、ではない。
 まわりの人から愛されている自分好きの人なんてごまんといる。
 それどころか、むしろちゃんと自分のことを好きな人でなければまともに誰かに好かれることはできない。

 ナルシシズムが本能的嫌悪を誘うのは、自分自身が不在な人間が、自己不在であるはずの自分に陶酔しているからだ。
 先ほどの自己嫌悪はどうだろう。
 客観的に自分を見つめて、もしも嫌悪すべき行動や思考、思想があったなら。
 単純に、今から改めればいい。
 死んでいるわけではないなら今日があって明日がある。
 今から変えれば未来は違うものになる。

 でも、どうしてもその行動や思考や思想を改められない人もいる。
 そういう人たちは、自分の行動や考えを憎みながら、それをすることをやめられない。
 やめてしまうと、その行動や考えの対象を憎むことができなくなるから。
 自分自身のアイデンティティがその憎しみに紐づけられているから、やめるわけにはいかない。
 すくなくとも本人は、そう感じている。心の奥底から。

 たとえば虐待癖(DVといえば分かりやすいか)などもそうだろう。
 虐待している間、その人はその人の正義の感情で煮えたぎっている。
 だから(好きであるという甘い糖衣に包まれた)憎むべき対象や状況があれば、それを正義という名目の怒りの矛先にする。
 どんなにそのあと自己嫌悪をしたとしても、その大元である行動や考えが本来的に独善的であり、その根源にある憎しみを手放して、たとえば無関心になったり、あるいは「本当の意味で愛する」ことができなければそのループは続く。

 自分がこんなに怒るのは、相手が悪いから、と思っているから。
 そうすると自分は簡単に正義になるし、その怒りを相手に発散することは正当な行為に思える。
 でもどうだろう。

 実際のところ、ほとんどの人間は、自分が怒りたいから怒っているだけだ。
 なぜなら、同じ傾向の感情の発露は他にもあるから。
 一般的なのは悲しみだろう。
 怒れない人は悲しんで涙を流す。悲しむことさえできない人は笑う。笑うこともできない人は無表情。
 必ずしも、その憎むべき状況や対象や感情に対して、怒る必要があるわけではない。
 選択された怒りだ。選択しているのは自分だ。

>>>

 ではなぜ「怒りを選択して」しまうのか。
 単純に憎しみの感情に起因していて、憎しみが支配欲にも紐付いて暴力的に発露するからだろう。
 自分に対象を支配するだけの力があると思っている人は、怒る。
 自分に対象を支配する力がないと思っている人は、悲しむ。
 そんなふうに思える。

 ビジネスシーンでもプライベートでもいい。
 人が個人的に理不尽を感じる(個人的でない理不尽感なんて、きっとない)とき、人は対象にある人を憎むのだ。
 自分の思う理屈で動かない子どもであるとか、自分の理想から離れようとする恋人だとか、自分の知っているカタチの敬意を示さない人間であるとかを。
 支配して思い通りにしたいという欲望を憎しみで包んで。
 その憎しみは、自分を見つめるいい機会ではあるのだけれど、多くの大人はそんなことはしない。
 自分の中の道理に従って(相手の道理を理解しようとすることなどまずなく)相手を断罪する。

 そりゃそうだ。自分の道理に反するものなんて、考えるのも煩わしい。
 自分の考える正義の真逆の正義なんて、理解したら自分の正義の根拠が崩れかねない。
 正しいのは自分だ。
 間違っているのは相手だ。
 だから、自分は、相手を裁く権利がある。裁かなくてはいけない。罰を与えなくてはいけない。その力が自分にはある。
 さあ怒ろう。怒鳴ろう。相手をねじ伏せよう。蹂躙して、正義のなんたるかを思い知らせてやろう。

>>>

 ……。
 いったいどこに「自分」がいるのだろう。
 相手がいて、相手に対する(正確には相手にこちらが投影している)憎しみがあって、憎しみに対して攻撃するための正義があって。
 仮に自分に属しているものがあるとするならば、その憎しみや怒りがそれなのだ。

 自分の環境や周囲の人間の中に憎むべきなにかを見つけて、それを攻撃して快楽を得たいだけではないか。
 憎しみの根源が自分で見つけられないから、それを許すことができないだけではないか。
 その根源が自分の中にあるから、それを見つめるのができないだけではないか。

 自己嫌悪も同様で、その憎しみの根源は、目に見えているものよりもずっと深くにある。
 自分の言動や情動の、そのまた奥に、自分の望みがあって、絶望があって、それでも渇望して。だから断ち切れなくて。
 自分を見ない自己嫌悪は、だからどんなに深く落ち込んでいるように思えても、単純な陶酔にすぎない。
 自分の行いや過去の情景とそこに付随した感情に酔っているだけだ。
 そこよりずっと深くに眠っている自分を見ないから、同じことを繰り返す。

 人は、憎悪する対象を、渇望する。どこまでも、その憎しみを手放したくない。
 その渇きは憎しみであると同時に、愛されたいという欲求でもあるから。
 愛して欲しくて憎んでいるのだ。
 憎しみが愛(されること)の代償行為になっていて、スライドされた感情になお執着している。
 ああ、おぞましい。

 よって自己嫌悪をする自分に自己嫌悪するなんて、もってのほかの愚行だということもおわかりいただけるだろう。
 そこには嫌悪の感情があるのに、僕は自己嫌悪する自分さえ見ていない。
 自己嫌悪する自分に対する嫌悪感に酔っているだけだ。

 自分を嫌悪する自分が愛しいとか、そんな自分を誰かから愛されたい(慰められたい)とかいうレベルではない。
 自己嫌悪の根源にある憎悪の対象(今回の僕の場合を具体的にいうと「他者を介在しなければ成り立たない性愛を通して、自分の価値が相対的に高いと錯覚し、にもかかわらず他者の人格を無視して道具化している」こと)とその根源にある欲求(「自分は他の人よりも優れている」あるいは「誰かから愛されている」「愛されるに値する」と自己認識したい。さらにいえば他者から評価されたい)という甘くて辛くて苦くてどす黒い、とにかくひどい味とにおいのする工業用アルコールのようなものだ。

 相手もいない。
 自分もいない。
 そんな宇宙空間のような宙ぶらりんの世界で、他人の存在そのものを道具に仕立て上げて、自分の欲望(性欲ではなくてもっと根源的な欲求)を投影して、満足している世界。

 そこには相手はもちろん、自分自身も存在しない。
 それほどまでに自分が好きかといわれると、実のところ、僕は自分の真ん中なんてこれっぽっちもない、空虚な人間なのだし、それも含めて僕自身を好きではある。大好きではある。愛してはいる。
 でも僕には自認する自分の性別さえない。
 それでも僕の自我は、僕という肉体と僕という思考回路にのみ存在して、その外にはどうやっても出られないから、これを愛するしかない。
 この自我がここにあるがゆえに。

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 仮に僕がからっぽでなかったとしても、あるいはからっぽでなければなおさら、僕は自我に負わされた潜在的な穴をふさぐために、自分を愛する必要がある。
 ただ問題は、自己愛は、自分の手だけで完結していなければならないことだ。
 自己完結しているなんて、自慰行為だと嗤う人もいるかもしれない。

 でも、他人がいないと完結しない自己愛は、他者に依存しなければ成り立たない自己愛だ。
 それは愛ではなくて執着になるし、執着は軸がずれれば憎悪になる。

 誰もいなくても。
 何があっても、何もなくても。
 無条件で自分を愛しているほうが、条件付きで愛しているよりも健全だ。
 それはなにも、自分だけではなくて、他者に対してだって同じなのだ。

 僕は実験の途中で、おかしな条件を自分に課してしまった。
 最初は冗談だったかもしれない。あるいは他者の言葉だっただろうか。
 でも、最終的にはその条件を自分で信じてしまった。
 誰の言葉であったかなんて関係はない。
 自分が何を信じたかだ。

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 僕が人間不信になったのは。
 自分以外の誰かを信じられなくなったのではない。
 自分以外のすべての人間を信じられなくなったのではない。

 僕が自分を信じられなくなったのだ。

 そして僕からは猫がいなくなった。

 さよなら。猫のいた私。

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 そして僕は条件付きで(自分に)愛されている(あるいはそう思いこんでいる)自分と、その条件に気が付いて、そんな益体もないものを信じることをやめた。

 他人から突きつけられた条件だったのかもしれないし、自分から設定した条件だったのかもしれない。
 あえて今回は僕がヤリチンであったことを槍玉に挙げているが、実際は、それだけではないかもしれないし、そもそも違う何かを別のフィクションで隠蔽しているかもしれない。
 僕がオープンなWeb上で、そこまでプライベートをさらけ出しているとは限らないし、あるいは純然と吐露しているかもしれない。

 大事なことは、人には愛されたいという欲求がどうやらあって、それがこじれるとけっこう簡単に憎しみに変わるということ。
 そして愛されたいという欲求は、愛することでしか満たされないという、すごくシンプルなことを僕が思い出したということ。

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 不思議なのだけれど(そして案外、信じてくれる人がときどきいてくれるのだけれど)僕の中にはほんとうに猫がいる。
 あるいはそんな気がすることがある。

 僕の中に猫がいるとき、僕は寂しさや恐怖や不安に過剰に反応しなくて済むようになる。
 孤独を感じないし、なかなか楽しいし、いろいろな発見もある。

 誰がそばにいても、猫(ここでは「僕の中の猫」を指している)がいないときの僕は、本当に不安定で、なにもかもが恐ろしくて、歪んでいて、憎かった。
 だから僕は最初、その誰かが不安定で、恐ろしくて、歪んでいるのだと思ってそれを憎んだ。
 やがて僕は、自分が不安定で、恐ろしいもので、歪んでいて、憎むべきものなのかと思った。

 でもそうじゃない。
 もちろん不安定な人間はいるし、歪んでいる人はいるし、恐ろしい人もいるし、憎むべきものもある。
 でもそういうものには、用心して近づいて、サンプリングしたら離れるべきなのだ。
 不快だったらすぐに離れるべきなのだ。

 ついついその穴を探りたくなることもあるかもしれないけれど。
 穴は他者に開いているのではなくて、自分の中にあるのだ。
 好奇心は結構だけれど、執着してはいけないし、なにより他者を道具にしてはいけない。

>>>

 自己嫌悪してしばらくして、答えが見つかって。
 猫が戻ってきた。

 僕が猫なのか、猫が僕なのか。
 やはり僕には分からない。

 さようなら。
 私のいない猫。

 こんにちは。
 猫と私。



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[NEXUS]
~ Junction Box ~

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[Engineer]
  -青猫α-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Color-Convergence-Darkness-Diary-Engineering-Life-Link-Love-Mechanics-Memory-Recollect-Rhythm-Stand_Alone-

[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-

[Object]
  -Camouflage-Cat-Human-Memory-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
  -衛星軌道でランデヴー-:-青猫のひとりごと-:-暗闇エトランジェ-:-ことばの毛糸玉-:-ひとになったゆめをみる-:-夢見の猫の額の奥に-:-月夜の井戸端会議-



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青猫工場 〜 Bluecat Engineering 〜
猫に小判と申しまして、巨額の借金の返済に充てても焼け石に水になってしまうので、パイプ煙草の葉っぱを買おうと思います。 それかマタタビ、あるいはキャットフード。