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今の気持ち

内定式が終わった。
朝、絶対間に合わないと思ったけど間に合った。奇跡である。出発時間に目覚めるなりシャツ、ジャケット、スカートを履いて、ストッキングは時間がかかるから昨日まとめた提出書類のファイルと一緒に鞄へぶち込んだ。到着した駅のトイレで履けばいい。とにかく家に出て、バスと電車をかいくぐって、集合時間につけば良いと極限まで思い詰めた結果だった。
バスは到着時間がまちまちだ。正直平均的に考えて間に合わない時間に乗った。しかし乗客が少なかったおかげで本来乗るはずの電車に間に合った。
僕は昨日のカバンを引き続き使ったんだけど、昨日おめかしをしたおかげで、鞄の中に化粧道具が入っていた。とりあえず眉毛とおでこにあるニキビを隠して、寝起き感をなくすためにまつ毛を上向きにした。
集合時間に間に合い、会場に行ったが開始時間まで15分余裕のある設定だったからか、1人普通に開始5分前に来てて、自分の焦りが少々無駄なようにも一瞬感じたが、まあ心を落ち着ける時間は必要なのでちゃんと急いでよかったと思った。どれだけ動きたくないと思っても、人間動こうと思えば意外に体は動くものである。

内定式は一瞬で終わった。が、少し時間が空いてフリートークを振られた時が地味に、地味に苦手な空気だった。嫌なわけではないが、相手にとって気持ちのいい返答をしなければならないんだろう、という勘と、この人の話は聞き取りやすいなと思わせる即興の構成力が求められる場面であると思い、考えながら喋ったわりには、ベルトコンベアーに乗せられていくように言葉が流されていく感覚が残念だった。僕は常に見返りを求めて発話しているわけではないけれど、会話である以上ある程度のアクションが目に見える方が安心する。僕の発言がいいと思ってるのか悪いと思ってるのか、マスクの下でどういう表情を浮かべているのか、ちゃんと言葉にしてこちらに投げかけて欲しかった。
じゃあ自分はどうなんだろう、と考えたとき、常に人に対してそれ相応のアクションや言葉を返せているかと問えば疑問符が湧く。だから、まあ社会で生きていく上で、22年間生きてきた上で、時間を埋めるための言葉達に会話の正しい形、あるべき姿を追求しすぎるのはやめようと思った。ただ、この時間を埋めるために特に意味なく言葉を並べることは、これからも社会をサバイブしていく中で求められていくのだと思うと、なんとなく気が重くなったのだ。

僕が出かける間際にぶち込んだ提出書類は、今日もらった内定承諾書と一緒に郵送で後日提出してくださいと言われた。意識的に気にすることが苦手なので、僕は朝からなんて不毛なんだろう(別にどっちでもいいことを、苦労して成し遂げているんだろう)と思ったけど、揃っているならその場で書類を受け取ってもらえるとのことだったので、提出して帰ることができた。結果的に未来の自分の心配事を減らすことができたので、念を入れて行動してよかったと思った。

生理のせいもあるかもしれないが、内定式の大人たちの話を全く集中して聞き取れなかった。唯一、よく覚えているのは新規事業を展開している代表の人の言葉で、「若い人にも活躍のチャンスが大いにあり、また最近アルバイトから社員に昇格した50代の方がいる。多様な活躍、働き方を認める文化が醸成されてきているので、ぜひ頑張ってほしい」とのことだった。古典的な文化を持つ会社であると当初から思っていたが、新しいことを積極的に展開している人の言葉、切り拓く先頭に立つ人の言葉はなんだか他の数人の大人たちとは違って、等身大の確信のようなものが見て取れた。
それ以外の時間、僕は目を開いたまま黙想をしていた。小学生の頃に習っていた剣道で、必ず稽古の始めと終わりにしていたものだ。その時、手の甲を膝に乗せて手を組んでいたことを思い出した。右手を下に、左手を上にのせ、親指を触れるか触れないかのところで合わせる。それは、右手の行いを左手で抑える、自身の行動の安定と調和を表すのだと先生が教えてくれた。僕は心が落ち着かない時、いつもこの言葉を思い出す。

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