案外身近にある''死にたい"衝動の話。
人生において死にてえな、と思った事はありますか?普段割とパッパラパーに生きて楽しいを摂取しては毎日を謳歌しているつもりでも、わたしの場合ふとした瞬間にそれはやってきます。割と不意に。
人生がどれぐらい続くのか、正直わかりません。もしかしたら明日地球が粉々になって死ぬかもしれないし、100年経っても生きてるかもしれない(それはないか)。でも私達は日々死に向かって少しずつ近付いているわけで、言うなれば死ぬ為に生きているような感覚すらあります。のんびり続く毎日、たまに死について考えます。(高校生になるまでなんとなく死ぬのが怖くてずっとお祈りをしてから寝ていましたが、ずっとずっと一緒にいたいとお願いしていたハムスターのひさごくんが死んだ時、神などいないとお祈りは辞めました)
例えばお酒を飲んでいるとき。割と少量で情緒がガクガクになるのでふと、目の前の灰皿をみてこれ丸呑みしたら死ぬんかな。とか治安の悪い事を考えたりします。電車待ち、道路を歩いているとき、このまま飛び出したらとか。ビルの屋上、うっかり飛ばされないかなとか。割と不意に襲ってくる悪魔がいます。
そんな衝動をやめとけやめとけ、と我に返らせてくれるの1つが消費行動であり、良く書いているエンタメの存在や更新が私の生きる理由です。
あとは家族・友人への妙な義理。家族は自分が死んだら悲しむかなとか、なんやかやな空気残して死んでそっから一家離散とかなったらたまったもんじゃないわけで。多分なんないけど。あとは仲良くしてる友人や知人にあいつ死んだんだー、へー。とか言われたらなんとなく腹立つじゃないですか。すっごい自己中だけど。
親戚とか知り合いの葬式に行くとみんな泣いてて、ああこの人は愛されてたんだなぁとかこんな事したんだなあとか、あんな事してもらったなあとか思い出す。そういう人になりたいけれど、泣きながら送って欲しいような気もするけど、あいつ死んだんだ、へー。で済まされるのも悪くない気もする。だって何も残してないから。
どちらかと言えばもの凄く生きていたいと思う時とさっさと死にてえなと思う振れ幅が言うなれば凄く雑な私です。楽しい時は明日が楽しみだし、来週が楽しみだし、推しが生きてれば自分が何をしててもうれしいし、だけどマイナスが重なると何もかもどうでも良くなる瞬間があって、それは多分恐ろしい事です。かといって今日も生きれたありがとうとも死ねなかった悔しい、とも思わない。失礼な話、もの凄く適当に生きています。
ご飯食べて風呂入って好きな事してちゃんと寝れて、好きなコンテンツを応援したりする。それがちゃんと生きてるって事ならそれで良い気もするけど誰かに迷惑掛けだしたらそれは引き時だなとなんとなく思うわけです。
そんな曖昧なディフォルト加減で生きている私ですが、今日何故か自粛期間中に観ようとポチッていたDVDが郵便受けに届いた事で親に雷を落とされました。しょぼん。
配達されて出なくて怒られたならまだしもポストインでそんなに怒ります?なんて混乱しながら自分の中で怒りが悲しみにシフトチェンジしたせいでこんなロクでもない記事を書いてしまいました。推し達のこれからを見逃すわけにはいかないのできっと明日も元気に生き延びる事でしょう。
本来ならGWが終わり5月病が増える時期となりますが今年は別の意味で情緒と闘っていかなければいけない世の中ではあるかと思います。
生きるも死ぬも推奨はしない私ですが何となく死にてえなと思った時には好きなもの、周りの誰かの事を考えたら少しは気持ちが切り替わりそうな気がします。是非、お試しを。私は推しが居るから、飼ってる猫が居るから多分死にません。推し、猫、ありがとう。あと家族と友達。ロクでもないわたしに関わってくれて本当に感謝しています。遺書じゃないよ。
読んでいただき、ありがとうございました!
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