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【映画鑑賞】今週のベストムービーは「ナミビアの砂漠」(9月:7本)

今月9月は私にとって忘れられない月になるのかもしれない。2019年12月にステージ4のホジキンリンパ腫になってから再発、社会復帰を繰り返し、ようやく残業ありの病気前の通常勤務に戻ることが出来ました。ドイツ人の友達によると「何で残業あり勤務体系に戻すの?」と訝しげに言われましたが自他ともにようやく病気の事を過去にしつつ流れに出来るなと言うのは自分にとって重要なステップで喜びなんですね。

この5年間は人生の大きな学びだったと思う。

ところがそんなおりに自分にとって凄くこの数年癌闘病という観点で大きな大きな影響を受けた方がこの世を去った事を知る。

人生ってほろ苦いですね。磯部さんと私は本当に色々な偶然が合って出会い話をし、メッセージを交換する仲にまでなった。去年ロルフィングの先生を紹介した時は身体が凄く楽になったととても喜んで頂いた。その時は少し恩返しが出来た気がした。

こういう縁もあるのだな、と悔しさ、悲しさより半ば不思議さを持って磯部さんとの縁は終わってしまった。すれ違う縁、傷つけあう縁、高めあう縁、形を変える縁。綺麗事ではない縁もあり人は生かされ変わり続けている。

縁て何でしょうね。また考えてみたいと思う。

【第1位】ナミビアの砂漠

さあ、何から語ろうか、それぐらいびっしりと詰まった映画だし感情を動かされる。一言で言えば「若さとは自己抑制の効かない」事なのかもしれない。若さとはキモい事でもある。けどそれは俯瞰すると愛おしさでもある。カナは自己抑制が効かない娘でそれが魅力だ。ジル・ボルト・テイラーの4つの脳の話の言うところの右脳の「全体性」と繋がっている。多分だから最後までこの映画を観れるのだろうな。綺麗事でない生の生(性)がカナ(河合優実)の身体から溢れている。

身体性に溢れている、というのがこの映画の特徴で黙ってご飯を食べるシーンとか沈黙があり言葉を減らしている。日常生活において会話よりも身体性、空間性の占めている割合はずっと多くその分リアルだった。

喫茶店の同級生の訃報の話に集中出来ないで周囲のマルチの勧誘が耳に入ってくる。ホンダからハヤシに乗り換える時も極めて本能的で罪悪感がない。たかが風俗行った事で罪悪感を募らせているホンダとは物の感じ方、捉え方が違う。

どちらがまともなのだろうか。映画を観ていて私はカナの方が健全に思えた。

社会性のある人にとってカナは悪魔のような娘だ。ホンダに貴方の娘を中絶したと嘘をつく。カナにとっては嘘をついたという意識はなく新しい恋人ハヤシの家で見たエコー写真を見てその持ち主を召喚させてしまった、と言える。だからハヤシに昔の中絶させてしまった女に対して「関係ないだろ」ていう言葉にブチギレる。それは男子の立場から見てとても同情する。ハヤシとの関係で少しずつ自分をスマホで見る様に俯瞰して見れるようになったカナは精神科医に自分は鬱病じゃないか、と聞く。カウンセラーに「思っている事とやっている事が違う人がいる世界は怖い」という。これが嘘偽りないカナの世界に対するホンネだろう。

全体性と繋がっているペルソナを被って生きているカナはエステ脱毛の欺瞞を客に喋ってしまいクビになってしまう。彼女にとって救いなのは自立した隣人(唐田えりか)の存在だったり、ゆっくり話を聞いてくれるカウンセラーの存在だったりする。スマホでずっと観ていたナミビアの砂漠のように干からび寸前のカナの心は救われるのだろうか、微かな希望を感じる。

現実にカナのような娘と付き合う時は距離を置かざるを得ない。けれど映画だと付き合い見捨てず観続ける事は出来る。そんな監督の優しさが見える。

この映画を劇場で鑑賞した後に山中瑤子監督の舞台挨拶があった。それは望外の話だった。無茶苦茶若くてシュッとしたおられた女性でビックリした!ホンワカした綺麗な人だったが客からの質問で河合さんの名前を間違えた人にはちゃんと名前を修正していたし、映画の中で河合さんのヌードで変なズレまくった質問した客がいたがそこに対しては凛とした態度で逆に詰問で返していた。それはまるでカナが監督に乗り移ったかのようで純粋で面白かった。河合優実さんは高校生の時に山中監督の「あみこ」にいつか一緒に仕事をしたいと手紙を出したそうだ。それはカナ的である。

カナは在日である事が書かれ、何かトラウマを持っているようにも暗に描かれてが過剰に描かれてないのも良かった。生きていく上で原因論で分析しても救われないからだ。この映画に対してある著名な精神科医がXのポストで色々カナの病名を分析していたが糞だと感じた。この映画はサブスクに落ちてくるのだろうか。もう一度見てみたい。というか山中監督の撮られた「あみこ」も観てみたい。そこから今の日本、世界の状況と照らし合わせながらもう一度感想を書きたい。

【第2位】ぼくのお日さま

最近日本の20代の監督が凄いんじゃないかって話を噂で聞いた。20代の女性監督山中監督の「ナミビアの砂漠」に食らった自分の密かなマイブームは20代の凄い日本人監督を探せっでございます。

で20代監督のこの映画も良い。何か手垢のついてない汚れてない北海道の田舎町の恐らく小学生の時の話だ。

吃音症のタクヤ、美少女のサクラ、わけありのフィギュアスケート監督の荒川の3人のお話。フィギュアスケートを踊るサクラに見惚れるサクラ。野球もホッケーも熱中出来ないタクヤはスケートには夢中になる。荒川の提案でサクラとタクヤはアイスダンスペアを組む事となる。小学生の頃ってまだ異性への気持ちとか芽生える手前のモヤモヤした時期。その何者にも穢されてない小学生のアイスダンスを光とともに演出する。訳ありの荒川がこの街に戻ってきた理由は同性愛者のパートナーが北海道に戻ったからだ。それを早熟なサクラにさとられ「気持ち悪い」と一言だけ残して去っていかれる。

誰も悪くない。人生ってすれ違いがあるし、それも含めて人生で大切だよねってこの歳になってやっと思えるがそれを20代の監督が撮っている事自体が個人的な驚きなのだ。

【第3位】地球交響曲第8番

毎回近所のスタジオで地球交響曲を一話ずつ観にいっているのだがそのオーナーの方がこの8番は特別だと仰っていた。

改めて観てこの回だけはもう一度誰か大切な人と観たい、と思った。この8番は2011年東日本大震災がテーマとなる。この映画が撮られたのは2015年。

登場人物は全て日本人、日本。
奈良県吉野にある天河神社に眠る「阿古武将」の能面を復刻する話。
東日本大震災で流された大木でバイオリンを作る話
気仙沼でまさに震災直下にあった牡蠣業の話。

断片的な感想はある。中澤さんが中学生の時に父親に初めてバイオリンを作って貰った話。え?バイオリンて作れるの?かつて幼少期に憧れたバイオリンのシンプルだが奥の深い構造に心惹かれた。気仙沼の牡蠣は美味そうだった。畠山さんが震災にあった時沖に漁業に出て奇跡的に助かった時、その記録が残っていた。もう海に飛び込むしか無い時に彼はその絶望の中で感謝の言葉を口にしていた。

この出てきた3人の人間性や深さよりもっと大きく感じたのは自然の偉大さ。天国と地獄とを分けるのは人間の勝手な都合に過ぎない。そこに畏れや美と知と勇気を示したのが日本文化である。本作は樹というテーマ。我々は樹のもつ精霊の声に耳を澄ませなければならない。

【第4位】チャレンジャーズ

切り取り方や画角や展開がB級映画っぽいなぁと思ってたけど後からじわじわ来る映画だなぁと。

ゼンダイヤ演じるタシ・ダンカンとパトリックとアートの12年間に渡る三角関係を描いている。10代のタシが言った「テニスは相手の関係性によるもの。相手とともに高みを目指すもの」言葉に全てこの映画は制約されている。

その意味でテニスとセックスは同義でダンスとも同義である。途中でずっと流れているテクノ音楽がそれらを結びつけている事に成功している。そうずっとMusic Videoを観ているような感覚なのだ。

タシは将来を嘱望された若手トップテニスプレーヤーだったが試合中の大怪我により道を断念してしまう。そこで彼女はゲームチェンジをする。寄り添ってくれたアートを世界一のプレイヤーにする(コントロールする)というものだ。アートに対しては支配的なタシ、支配できない事でパトリックとは切れる。常にタシのサングラスごしの目があり彼女がゲームコントロールしているのだ。

だがそのゲームは永遠に続けられるものでない。12年という歳月は長いようで短い。その嗜好のゲームが終わりが近づいているのを3人とも感じる。トッププレイヤーになったアートは疲れ切って引退を口にする、パトリックだって30を超えて何時迄も体力に任せた競技生活は続けられない。タシも自分の容色が衰えつつある事が分かっている。ゲームを続けるのは若さであり、ある年齢になったらそこから降りなければいけない。

ギリギリ最後までこの映画を引っ張り続けているのはゼンダイヤの身体性とパトリックとアートのBL的な関係性なのだ。

【第5位】憐れみの3章

ヨルゴス・ランティモス監督×エマ・ストーンのタッグで「哀れなるものたち」が面白かったので観に行ったら事故にあった、感じだった。

世の中は支配するものと支配されるものがいて虐待するものと虐待されるものがいる。それは支配するだけの問題なのか?というのがランティモス監督の胸の内にあって、いや、それは分かるんだけどさ、グロいし長すぎるんよ。映画館で観ていたんだけど途中劇場から退出する人もいて、そうだよねキツイよねと同情した。

その支配/被支配が上司と部下という形で表出させたのが第一話、男と女という関係性を描いたのは第二話、第三話は組織とその組織に属するものという関係性を描いている。

一章目は食べ物や性行為の回数、結婚する相手まで決められている男性が主人公で人を轢き逃げしろ、と言われて初めて逆らった事でクビになる。これ自分良くわかるんだよな。「言われているうちが花だ」「いいよ、わかったよ、好きにしなよ」という言葉を二言目に良く使う上司がいてその上司とは一緒の職場にいるけど縁は切れてしまっている。でも特に日本組織の中ではあるんじゃないかと思った。でクビを切られて自由になっても何を呑んだら良いかも決められないし、女性も口説けない。そういう人にとっては支配されているほうがマシなのかもしれない。

二章目は自分にとっては難解だった。エマストーンは海洋学者なんやけど友達夫婦とスワッピングとかする一面もあるんよね。遭難していて戻ってきた時に夫は自分の好きな曲を知らない。家のペットが懐かない。嫌いな筈のチョコレートを食べる。靴のサイズが合わないなどがあって夫は別人じゃないかと疑い出すんよね。酷い事を夫からエマストーンは言われるんだけどひたすらに夫を肯定するんよね。DVの典型やけど男女関係ってSMとかも含めた性行為って愛よりも暴力に近い部分もあってそれが甘美なものだけにやめられないって部分もあるのかもしれない。

三章目はセックスカルト教団に所属する女性の話。女性は手かざしで人を治す女性を探している。彼女を昔助けた人の中にそういう人がいた筈だと。一方で家に残してきた子供には未練がありこっそり忍び込んでベットに聖水をぶち撒けるという事をやっている。うっかり夫に見つかって家を訪ねた時に夫に睡眠薬を飲まされヤラれてしまう。でぶっ倒れるようなサウナでも浄化されないと決められて首になる。その後手かざしで人を治す女性を探し当てるが不慮の事故で死なせてしまう。

こう筋を書いていると結構面白い映画かもしれんし知的なカップルやったらこれを観てあーだこーだ喋るのはアリかもね。個人的に所々出てくるBMWの不協和音、エマストーンの踊り、マッケンローの壊れたラケットという謎の贈り物はツボだった。けど全体的に観てグロいし長いし、ここまで脳にダメージくる作品作る意味ある?って思ってしまった。

でも支配/被支配の関係って何だろうなというのは「関心領域」見たあたりから考えている。支配されたい側がいるから支配は成り立つんよね。その根元には「色、金、ミエ」という欲が人間は強いからなんだろうな。そこから自由になる為にはどうするか、戦略と構造に対する俯瞰した視線が必要だとやっと気が付きつつある。これについてはまた考察したいと思う。

【第6位】あの頃。

推し活というものが今女子の中で流行っているらしい。女子で長い間推し活をしている人を知っているが美人さんだし、ちゃんと彼氏作って結婚してお子さんもいる。バリバリの仕事できる美人社長とかも推し活をしている。

翻って男子はどうなのだろうか?そんな疑問があり本作を思い出し観てみる事にした。

映画としては面白かったけど後半は失望する部分も多かった。松坂桃李演じる主人公が彼女なし、バンドやってても怒られるばっかりで疲れ切った心に松浦亜弥の存在に惹き込まれる瞬間、初めて亜弥と対面した瞬間などはグッとくるもののその「推し」について描かれているのは前半部分までで後半はホモソーシャルなオタ活コミュニティが描かれていてそれも肯定的に描いているのが気持ち悪かった。仲間の彼女に手を出すのはまぁ若気の至りだから良いとしてその発言を録画して仲間内のイベントで暴露するあたりはキモっ!て思った。これが昭和・平成の芸人であるイジリ芸にも通じるな、とも感じた。

そのイジリは癌になったコズミンに対しても止む事はない。食べ物をロクに食べられない状態のコズミンにラー油をお見舞い品に送るのもどうかと思うし、それを鼻先に近づけて笑いにするのも不快極まりなかった。あんな友達俺は要らんわ、これ癌サバイバーとしての本音ね。

アイドルの卒業公演で高校教師である西田尚子との交流あたりは良いなと感じだけどね。

【第7位】Black Berry

BlackperryというIT会社の栄枯盛衰を描いている。

大筋は史実に基づく話でAppleの先駆けとなった会社だ。Winner take allというビジネスの世界の厳しさ、残酷さを示すが歴史に名を刻んだだけでも意味があったのかもしれない。

最後のダグがこの話の中で一番勝ち組になったんだよな。これをこの映画は一番描きたかったのかもしれん、と感じた。

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