【レポート】尹雄大氏講座「集注」
この講座は2023年12月に受講した。1ヶ月も経ってようやく受けた講義について思う所をまとめ始めている。それくらい自分にとってじっくり考えたいテーマであったし心と身体が全てを総括してくれるのを敢えて「待って」いた。
現在は「集中」の時代になってしまっている。
尹さんは講座で最近パワーポイントを使われていないそうだ。それは現在が「目」と「親指」を主に使用している世の中になっている弊害と気づかれたからだそうだ。下記の絵はホルムクルスの一次体性感覚野の図である。今我々の身近な機能である感覚機能や運動機能では脳のどこの部位が身体のどこに対応しているかわかっている。下記の図では現在は目と親指を主に使っている時代になり他の感覚が薄い部位がなおざりになっている。それが「集中」である。だから集中なんぞは決して良いものでない事が解るだろう。身体の機能の一部分を過剰に使う時代なのだ。
現在はテクノロジー進化の過渡期でいわゆる「一感」の時代かもしれない。後の「四感」が蘇らせる為にはやはり待つ(=時間的空白を作る)事なのだろう。
昨日今年のM1を観ていても思ったのは4分という時間の中にいかに笑いを沢山入れるかに終始してしまっていて「間」がない。五感でなくある一箇所のみを強制的に擽られて笑わされている。そんな印象を受けた。
文明とは怖いものだ。
文明とはある意味恐ろしいものだ、と尹さんは説く。LGBTであったり環境問題であったりマイノリティ文化であっても始まりは個々の感覚の把握⇨概念化⇨共有化&一般化され普及されていく。そうして本来は多様性、複雑性を帯びた事象であったり個々の感覚の総称でなかったものが「一つ」にまとめられてそれで語り尽くされているような形で流布していく。
自分の多少関わり合いのある「B boying」についても同じ事が言えるなと昨日B boy仲間と飲んでいて気がついた。B boying =ブレイクダンスというマイナーな文化は2024年にオリンピック種目に採用された。アフリカンアメリカンが始めたこのダンスはBasicなものの上にニュースクール系のダンス、ヨガ、カポエラなど様々なダンスを取り入れることが可能である。本来大切なのはBeing myselfで多様な「かっこ良さ」を表現する魅力あるダンスはオリンピック競技になった事によりジャッジの基準の言語化、数値化、透明性を測る為に偉く苦労しているらしい。勿論この素晴らしいダンスが普及し社会的認知される事は歓迎する一方でそこからは抜け落ちるものも沢山あると当事者としては感じる。
「バービー」という映画を年末に見た。バービー界とバービー人形を買った人間界がパラレルに存在しそれが相互作用している世界を描いた相当変な映画だ。これは一見フェミニズム映画に見えるがそうではない。男性蔑視、女性蔑視とか色々な立場の人はこれを観て自分を投影する筈だから人によっては見るのがしんどい世界観かもしれない。男性上位の社会にしよう、いやいや女性上位の社会にしようという動きの中で見失われがちなのは「その人らしさ」(この映画では個々のバービーらしさ、ケンらしさである)なのだろうと思った。
自由とは何なのか?
「自由とは自我を満足させるが必然性を伴わない」と尹さんは仰られた。文明は進化し発達し新しい感覚や世界が生まれている、それはどんどん進化したら良いと思うがそこには「必然性」はない。
私は4年前の癌で圧倒的な不自由、拘束感を感じた。だがそこから何とか這いあがろうとしたその「必然性」の中に圧倒的な「自分らしさ」があった。その時に確かに概念以前の「自由」はあった。それを共有化したりするのは難しい、でもそれでも良いと思っている。
前述した韓氏意拳の手解きを受けた時も淡い感覚、手応えのない無さがあった。だから自我の満足は無く身体の必然性は存在した。手応えだけを足がかりにすると筋トレや脂っこい食事のようなものに偏ってしまうのではないか。そこにコミュニケーションや対話は存在しない。自分の中で必然性を伴ったコミュニケーションがない状態でどうやって他者とコミュニケーションは取れるのだろうか。
病とは自分らしさを取り戻す機会なのではないか。
尹さんの腸捻転に罹られた話は思わず自分の癌闘病の話と重ね合わせて聞いてしまった。腸捻転の治療は「日曜大工みたいなものだ」と仰っていたが誤解を恐れずに言えば癌治療も似たようなものだと私の体験でも感じた。それくらい癌治療は限定された荒技しかない。尹さんは病の後少し刺々しさが抜けた、という話をされていたが全く同じような事を私も私自身に対して感じている。
あの癌闘病は「自分らしさ」を取り戻す機会だったのではないか。私は今三人癌治療している人のサポートをしている。それを観ていてつくづく思うのは結局は大病は自分らしさを全開にして病に立ち向かうしかないという事。そこには圧倒的な「必然性」があり自分の中の「他者」との出会いでもある。そして自分らしさを見出してそれを活かせるというのは皮肉な事に「喜び」でしかないのだ。
もし病が今までの生き方、過程に集積されたものであるならば病が消える事により時間が逆転していくようになっていくのではないか、と尹さんは仰った。恐らくこの講座の中で自分にとって一番価値のある言葉だったし嬉しい言葉でもあった。
この講座の終わりに二人の女性が質問をした。一人はコミュニケーションを取りたいのに部下が中々心を開いてくれないという悩みの女性、一人は軽いコミュニケーションが嫌いなのに美容院や整体で軽口を叩かれるという悩みを持つ女性だった。私は横で聞く限り前者の女性に誠実さと柔らかさと後者の女性には芯の強さと知性を感じた。
にも関わらずそのような悩みがなぜ起こるのか。私の仮説だが社会性の制限によって「彼女達が彼女達らしくいれてないのではないか」と思った。
空間に目を向ける。
コミュニケーションとは空間に目を向ける事だ。人間の身体の中はエネルギー体で空間が存在する。頭で身体に言い聞かせる、従わせる。そのやり方は健康な状態では可能に思われるかもしれない。だがそこには対話は存在しない。対話は常に淡く手応えがないように思われる。時にすれ違い、時に触れ合う。つかず離れず観察する事。時には待つ事が重要になる。
他者に対しては距離と距離感に注目する事。共鳴し合う距離感。せめぎ合う、ヒリヒリする緊張感のある場に身を置く事。他者を通じて自分を知る事が出来る。