見出し画像

「推し」と「信仰」について

最近推しについて考えるきっかけの出来事があった。

毎朝オンラインでとあるボディワークを受講している。その先生がこの度ダンサー、パフォーマーとしてデビューされる事となりその舞台を見に行ってきた。歌手とパフォーマー(先生)、シンセサイザー、オカリナみたいな混成ユニットで宇宙的な世界観を体現するユニットみたいな感じのユニットで結構自分的には1ケ月前からワクワクしていた。

平日の割と深夜のクラブイベントで自分的にはクラブに行くのも5年以上ぶりくらい。毎週のようにクラブ通いをしていた15年前を懐かしく思いつつそのクラブにたどり着いた。入ってすぐ昔を思い出しつつも空気の重たさを感じる。やっぱ昔とは違うんだよな、という自分の身体的変化を感じた同時に、踊る人が全くいない空間も居心地が悪かった。クラブなんて踊ってこそなんぼじゃん、という感性の持ち主だった自分はそこから一瞬だけだけど他人とも繋がれるそんな空間が大好きだった。あれは幻想だった。だけどあれから数十年そういう幻想は自分の中には残っていない。

暫くして自分の先生と先生きっかけで知り合った人がどやどやと入ってきた。何故かそのメンバーにすぐに挨拶する気も起きず、テンションの下がった状態のままパフォーマンスを見る事になった。

最初の10分ほどはその宇宙的な世界観、いわゆる全ては繋がっている、という世界観に魅せられた。その先生も元々身体能力が異常に高い人なので楽しめた。けれどすぐに退屈した。自分がダンスのパフォーマンスを死ぬほど沢山見てきたせいかもしれない。素人とは言えない流石のパフォーマンスではあったけどやっぱり修練を詰んだダンサーには到達してない、ある領域は全く超えてないパフォーマンスだった。

どんどん退屈になり苦痛になった。それで2時間のパフォーマンスの長さに耐えられず1時間くらい経った所でこっそり帰った。それから数日経ってあれはどういう事だったのだろう。何故あれほどまで退屈したのかということを考えた時一つの結論に至った。

あれは「推し」の場だったのではないかと。パフォーマンスの質やその人を愛でる場であって自分のように新しい世界が見れるのでは、自分にとって有意義な何かを体内に取り込めるのでは、という人がいく場所ではなかったのだ、と感じた。その先生は本当にイケメンで性格も良く、女性人気も高い。彼らにとってはその先生から何かを学びながら同時に「推し」でもあるのだな、と。

推しって何だろう、それが自分がこの記事を書くきっかけとなったのだ。自分の些細なモヤモヤを消化するだけの文章である。

女性にとっての推し

最近聞くのが「推し活」という言葉。10年くらい前に韓国のアイドルの推し活をしている美人さんと出会ってデートした事があった。その美人さんと良い関係になるたかったのだが、不幸な事に彼女は自分には興味がなくその美人さんは別の男性と結婚して子供を産んでいるのをFacebookで見た。

でまあそれからさらに月日が経ち時代が変わり推し活はどんどん社会的に認知がされるようになった。仕事バリバリして彼氏もいてという人が同時に「推し活」をする人がいたりする。なんか男性の推し活って少しジメッとしているじゃないですか。彼女がいなかったり仕事も燻っている人達がやっているもの(めっちゃ偏見だけど)という認識が多かった気がする。

でこの本を読んでみた。推し活をしている女の子の内面の葛藤を描いた話でなんとこの作品は芥川賞を取ったらしい。

高校一年生のあかりには推しがいる。推し中心の生活をする彼女に周囲の目は冷たい。何故彼女は推しに命をかけるのか、を深く抉って書いている。

世間には、友達とか恋人とか知り合いとか家族とか関係性が沢山あって、それらはお互いに作用しながら日々繊細に動いていく。常に平等で相互的な関係を目指している人達は、そのバランスが崩れた一方的な関係性を不健康だとか言う。脈ないのに思い続けても無駄だよとかどうしてあんな友達の面倒見てるのとか。見返りを求めているわけでもないのに、勝手に惨めだとか言われるとうんざりする。あたしは推しの存在を愛でることが幸せなだけで、それはそれで成立するんだからとやかく言わないで欲しい。

推し燃ゆ(宇佐美りん著)

この文章って推しの本質を突いていて何か自分の価値観を揺さぶられた気がする。そうだったのかと。要は推し活ってその人の背骨を支えるもの。一つの形を変えた「信仰」の在り方なんではないか、と感じた。最近宗教心理学を学んでいてその先生が仰られるのは日本には宗教はない、生まれて感じた事がない人が殆どなのだ、とか。

生きていく為の揺るぎない指針が欲しいとどんな人も思う訳でそれが仕事であったり家族であったりそれが癒しであり救いであったりする。だけど仕事はどんな時もどんな人にも救いである事はない。それは家族であったり友人であったりもしても同じ事だ。万物は流転するし、人の距離感も衛星のように変化する。

じゃあ自分に自信を持てば良いのではないかとマッチョ思考の人は言うだろう。だがそんな自分を疑い、時には容易く否定せざるを得ない事だって必ず起こる。それが無い人は行き詰まるし、老害になりかねない。その時に「推し」は距離感が変らない分救いになるのではないか。それは宗教の途絶えた現在社会において救いになるのではないだろうか。

男性にとっての推し

男性の推しって何だろう?と思ってこの映画を見てみた。

2021年上映となった松阪桃李主演の「あの頃」という日本映画。大学院受験に失敗し彼女なし、バンド生活も上手くいってない男が松浦亜弥を知ってハロプロオタクに目覚めていく、と言うお話。

彼が一人暮らしの部屋で亜弥の「桃色片思い」に救われるシーンやハロプロコミュニティに入るシーンなんかは凄く良いと思ったのが途中から自分の気持ちがどんどん尻窄みになっていく感が強かった。コズミンが仲間の彼女に手を出してそれを身内のイベントで弄るとかね。アイドル(推し)と自分の関係性ではなく主眼がホモソーシャルな身内の関係性になっていくにつれてどんどん乗れなくなっていった。誰かの気持ちを犠牲にして仲間内の全体の笑いにする、って言うのを好む男性は一定数いて自分も何回か犠牲になった事あるけど嫌なもんよ。それをこの映画では半ば肯定的に良き思い出みたいな形で語っているのは気持ち悪いなあと。

アイドルの卒業式きっかけで高校教師である西田尚美とのちょっとした交流があるんやけどそこはグッと面白くなりそうだったので喫茶店でお茶でも飲めよ、と思ったのだが
結局その場限りやった。

推しと言う本題からは離れるけどコズミンの死について描き方も凄く嫌だった。もうご飯も食べれない状況で辣油をお見舞い品に持ってくるってどういう神経なん?って癌サバイバーとしては思ったし、死してなお弄るってそれはコズミン的には嬉しいんかなって普通に思う。死を迎えるって個人的にも意識変容が凄く起こるもんやし、いつもと変わらなく接することが人を傷つける事にもなるんやで。

それで思い出しだけど自分がステージ4の血液癌になった時、いつもと変わらず弄ってきた元友人がいた。それが原因で私から縁を切り絶交状態になったけどそいつはひょっとしたら変らないホモソーシャルな関係を信じていたのかもしれないなあと思った。

色々ネットで「あの頃」の感想を探っていたら本当に自分の気持ちを代弁してくれているような感想を見つけました。

結論

「推し活」って今は女性のものやなあって思う。何故なら女性って歴史的に柔軟性があるって思うんよね。ファッションだってスカートを履いたりズボンを履いたり、女性性を出したり男性性をあえて出したり自由自在だし幅がある。だから生活や友達の関係性や恋愛ときちっと分けれる器用さ、そういう感性があるんやろうなと。

この信仰なき時代に推し活に活路を見出せるのは女性の本能ならではやろし。男性は、、多分仕事が信仰なんだろうな。。でもそれは特に歳をとってから裏切られるような危ない生き方かもしれない。「違国日記」でもあったけど群れに属するということは安全性とともに危険性も同時にはらむ。そして勿論推し活だって推しが芸能界を辞めたらそこで終わる訳でそれは「推し燃ゆ」の中でも描かれていたがその時間は消えないし、そのエネルギーを転換させるのは今のところ女性の方が強い気がする。

いいなと思ったら応援しよう!