3.「親にならない」という選択について_その2
前回記事から、
筆者の「親にならない」という選択に至った経緯を
「<1>精神的な切り口」というカテゴリで記述している。
前回記事ではおおよそ物心ついた頃から小学校の卒業までの経験について記載した。
今回記事では、10代前半以降の経験と、それに対する思考について記述していく。
<1>精神的な切り口の続き
<1-2>「自らの意思に、自ら気付く」という訓練
■祖父母の死去
小学生高学年のうちに父方の祖父母が立て続けに死去した。
施設に入居させることなく、介護し続けた両親は、本当に悲しんでいた。
前回記載した通り、祖父母と母には確執があった。
それでも母は祖父母と家族としての関わりは避けなかったし、祖父母も母の世話を受け感謝を伝えていた。
母と自分の両親の板挟みになっていた父だが、両親のため妻のため働き、休日は介護に積極的に参加していた。
祖父母にとって待望の長男だった父は、その役目を果たそうと必死に過ごしていた。子の筆者でもわかるほどだった。
祖父母の喪失に悲しんだ両親だが、祖父母の同居・介護が負担になっていたのも事実。
死去に伴い介護等の負担が減り、さらには子供たちも成長に伴い手を離れていく。
両親二人の心の余裕が劇的に増えたのである。
両親にとっても子供たちにとっても本当にプラスに働いた。
家の雰囲気が本当に明るくなった。あの衝撃は忘れられない。
そして子供たちも、子供たちなりに大人のために沢山の我慢をしていたことに自ら気付いたのだった。
■中学校への入学そして入寮
筆者は、寮のある県外の中高一貫校へ入学することになる。
通学が困難な距離に自宅のある生徒が入寮する制度がある学校だ。
※姉も筆者の入学と同時に同じ学校へ編入試験を経て入学する。
筆者と姉は、通学が困難なため入学と同時に入寮することとなる。
親元を離れ、何をするのも自分の意思が優先される環境に大変戸惑った。
なぜなら、それまでは行動の軸は全て家にいる大人だったためである。
価値観、育った環境の違う最大6学年差の子供が集まり集団生活をしていく。
寮のルールを破らなければ、基本的に何をしても許される。
逆に言えば縛りが極端に少ないために、できることが多すぎて衝撃が強かった。
それまでどこに行くにも、何をするにも、親の庇護下にあった筆者は
この生活を通じて「自らの意思に、自ら気付く」という訓練をしていくこととなる。
価値観、育った環境の違う同級生との出会いと、
「自らの意思に、自ら気付く」という訓練をした6年間が、
筆者の「親にならない」という選択についてのベースとなっていく。
今回の記事は随分と前回からの記事に引き続き、
自分語りとなってしまい大変恐縮である。
次回以降数回もこのような記事が続いてしまうことをご容赦願いたい。
次回からは「子供が欲しい」という思考への違和感の気付きと、
「子」という存在への罪悪感を生み出した幼少期の記憶の反芻、
反芻に伴う内省に苦しんだ10代半ばの思考を記述する予定だ。
お読みいただきありがとうございました。
凡七