2022年を振り返る.
1~2月 難病の父の見守り方で母と衝突.
こうすればいいじゃん(怒).
昨年秋から解除なしに動けなくなった父の日ごろの介助で
小さな衝突が繰り返され、あきれ果てた私は、
何も言わないから、好きなようにして!
望むことだけに関わるから!
しばらくして母が激怒… いつもの展開…
3月 病院の通院頻度が大きく変わる.
3月の通院診断で、多くの検査が必要になる.
難病に伴う脳梗塞の疑いを全身的に調べることを医師から
促されたからだ. 週に1~2回ペースで病院に通う.
父・母・私で通う病院の機会が急激に増える.
待合室での時間の多さに加えて母とのやりとりに何かと苛立つ私.
コロナで、診察には父と母しか入れない.
「母さんはなんでも先生に質問している」
その言葉に対していいたいこと…母が聞きたいことと
家族が知りたいことがいつもかみ合わないということ.
母は、父がどにか直せるか薬はないでしょうか?という事と
母の気持ちを医師に伝える事ばかり.
医師が毎回同じことを言うしかなく、父がどういう状態で
今後どのように考えていけばよいのかが分からない.
私は母のいう事を聞かず、診察に父の車椅子を押して
二人で入っていくようになった.
父はあまりに多い検査を頑張った.
あまりの通院頻度に、母は私に診察同席を自然に頼み始めた.
4月中旬~5月中旬 いったん小休止だが・・・
車で2時間の実家まで、3月の週1~2の往復はとても疲れた.
4月上旬時点である程度の結果がわかり、
母も1か月位、次回通院を伸ばしてもらえないかと医師に相談.
この期間、介護保険である程度のサービスは受け、かつ、
ケアマネさんなどのご協力をいただいていたものの、
父の排便と排尿のお世話が本格的になったこの時期.
やりとりしていて母の様子は険しくなる.
父の状態も険しくなった.
ケアマネさんとの相談で、一か月ショートステイを
することに決まった. 在宅介護は限界に来ていた.
5月下旬 あわただしい変化.
約1月ぶりの通院の朝迎えに行く.
免許返納の代理手続きでどうしても父の顔写真が必要だった.
眉間にしわを寄せた父の顔写真を撮ることになった.
病院で脳CTを取った結果、慢性硬膜下血腫がわかり
即日、緊急手術と入院となった.
この日がショートステイ入所日だったため、
入所延期してもらった.
母を実家に送り、妻と一緒に
父の術後をベッドで短時間見守った.
母がもう介護が難しいなど事情を踏まえて
ケアマネさんと病院側で調整してくれ、
数日経て退院したその足で
治療ショートステイ先に入所した.
車で移動中、妻はずっと穏やかで綺麗な曲を
父の耳元で流し続けてくれた.
6月 決断.
ショートステイ先から病院へ数回通院した.
母の在宅介護がなくなり、
父の顔つきや状態は穏やかになっていった.
母も気分転換しながら穏やかになっていった.
母とケアマネさんと今後の件で話し合いつづけた.
・ショートステイ延期
・治療ロングステイ入所
・難病受け入れ病院の療養入院
・自宅介護
結果、療養入院にした.
母はもう介護する自信がなかった.
でも父と家で過ごしたかった.
父の難病では、家にはもう戻れないだろう.
母も覚悟している様子だった.
母は私に、父の経済的事情がわかる通帳を
見せてくれるようになった.
意外だった.
当面やりくりをするのに助かった.
6月下旬にショートステイ退所後、
父は2日だけ在宅で過ごした.
家に帰れてよかったね!
父は難病でまぶたが開かない状態で涙を流した.
療養入院する前日、実家に出向く前に私はなぜか
実家地域の育って思い出がある各所をひとりで
車巡りしていた.
小学校、中学校、キャンプ場など何十年ぶりに.
お世話になりましたと、心でお礼していた.
父にありがとうと感謝しながら.
澄んだ日差しがとても印象的だった.
自分は中学まで父と母にここで育てられたのだと.
そして入院前夜、私は父の傍らで一晩過ごした.
母はいつも通り2階で寝た.
父が何十年も座っていたソファ定位置のそばに
敷いた布団に横になって、
尿の臭いが一晩感じられた.
今までの父母の生活の現実だった.
入院朝、食事介助や髭剃りなどお世話した.
着替え身支度して病院へ向かった.
父が乗る車中にて、
母は近所出来事の文句を何気ない日常と変わらず
言い始めた.
今はそんなこと言わないでほしい、とだけ言った.
病院につき、
車から父をだっこして車いすに移す作業.
私が父にできた最後のハグとなるであろう.
「頑張ってね」と笑顔で声をかけるしか
できなかった.
そうして父は6月下旬、入院した.
7月 面会そして母とのこと.
父とは一度面会できた.2名のみ条件.
TVで見たような防護服を着て10分間.
母はアメを父の口に強引に入れていた.
看護師さんに叱られるぞ.
10分は短い.
父は両手で母と私の手を握って
笑いながら、手を揺らしながら、
こちらの声掛けに答えていった.
母は介護から解放されだいぶ落ち着いた.
父がいなくてさみしいと妻には電話で話したようだ.
伝えるべき親族に父の事情を伝えながら、
実家の諸事も手伝っていった.
母は、実家にくる父あての請求書や郵送物など
何でも、私が顔出す度に見せてくれ、
手続きなども頼んでくるようになった.
父にも伝えた.
家のもろもろは把握できて
お袋と協力してやるから安心してと.
8月 自分の変化.
7月から徐々に落ち着いてきたことで
私の日々の気持ちにも変化が出てきた.
仕事のやる気が出なくなってしまった.
モチベーションが出ない.
子育てが3年前に済んだときも
ほっとした影響からかモチベーションが
上がらないことがあったが
父の難病に伴う介助がだいぶ落ち着いた
この頃、自分でもどうしてよいか
わからない無力感や脱力感が襲ってきた.
お盆に帰省した息子にもそのことを話した.
妻は、私がどんな状態でも穏やかに
見守ってくれている.
30~40代、私と妻は共にうつを経験し、
お互いに穏やかに接することを学んでいる.
だから今もありがたい.
9月 自分と向き合う.
父とは2回面会できた.
週1で全介助入浴、週2で手足を動かす
リハビリをしている.
髪の毛も坊主になりさっぱりしている.
コミュニケーションもできる.
この難病は8~10年位入院することに
なりそうですと病院から聞き及んでいる.
母の様子を定期的に見に行っている.
母は一人の生活も慣れてきて、
何気ない話をしてはお互いに笑顔で
接することがどんどん増えてきた.
母の暮らし方について、私は過去のように
私目線で母に物言うことはしなくなった.
口げんかもほとんど無くなってきた.
周りがどう見ようが、
母が良ければそれでいいのではないかという
気持ちがあふれてくる.
それにしても
自分を生きる気力が湧かない.
もがけばもがくほど.
家族よりも自分自身のことで実は手一杯だ.
10~11月 ひとつの答え.
父との面会は、コロナ影響で中止になった.
母は、父が入院している病院に通院している.
母は病棟入口のあたりをウロウロして
看護師に幾度か注意されたようだ.
看護師や病院の立場よりも
自分が会いたい気持ちで動く人だ.
電話で注意したら
久々の口げんかになった.
これも思い出.
無気力感から抜け出せないでいる
私の気持ちに一つの答えが出た.
今日1日を大切に過ごそう
少しづつではあるが
仕事や日常にやる気のでる日が出てきた.
とは言え、気持ちに波はまだまだある.
父の状態について、親族にしばしば
聞かれることがいやでしょうがなくなる.
ラインするのも電話するのも苦痛なのだ.
そのことを伝えた.
8月ごろから無気力感になっていなければ、
苦痛を苦痛と感じずに
自分に無理して生きていたかもしれない.
12月 納得.
仕事をこなしていくうちに
気持ちが抜けたような気がした.
はっきりと何のきっかけか、わからない.
前よりも、何事も無理しない
前よりも、頑張らない
前よりも、いやな場面や面倒な人とは
距離を置く
前よりも、体と心を楽にする
前とは別の視点で、自分の過去をとらえる
こんな気分になった.
今年1年は様々な出来事があったが
その出来事を介してこんなに自分自身と
向き合った年はなかっただろう.
父へもっと手紙を書いてみようかな.
幾度となく喧嘩した母とも
接する機会をより大切にしたい.
何気ない出来事を大切にしたい.
あと1時間で新年だ.
有意義で幸せな1年だった.
ありがとう.