『東京ゴッドファーザーズ』ハナちゃんと日本の宗教風俗
2003年に公開された今敏監督によるアニメーション映画『東京ゴッドファーザーズ』
クリスマスの夜にホームレス三人が捨てられていた赤ちゃんを拾い、その親を探す旅に出かけるコメディ仕立てのストーリーである。
デビュー作『パーフェクトブルー』や『千年女優』そして『パプリカ』とはまた毛色の違う物語であるが、僕自身はかなりお気に入りの映画だ。
ホームレスの一人、ハナちゃんは中年のいわゆるオネエである。差別用語とされる「オカマ」という言葉がこの映画では頻出しており、今自身もあえて「オカマ」という言葉でハナちゃんを語っている。よってここでも作者の意思を尊重して「オカマ」という言葉を使わせていただく。
今回特筆したいのはそのハナちゃんである。
この物語でキリストを想起する人は多いだろう。今も「観客にはイエス・キリストを連想してもらわねば困ります。」¹⁾と述べている。この物語の規範にはそうしたキリストの物語があるのだが、しかしそれを避けるような描き方も散見する。様々な捻れやズレ、アンバランスさが潜んでいるのだ。それらは何を表しているか。日本の宗教的価値観なのではないかと考えた。
今は「その宗教(キリスト教:著者注)の価値観に則った作品ではまったくない。むしろ多くの宗教が混然となった日本の宗教性……という言葉は使いたくないので宗教風俗とでもいっておくが、それを反映している。」²⁾と述べている。
その意見を丸ごと鵜呑みにするのはやや危険であるような気もするが、彼ほど自分の作品を雄弁に語る作家もいないように思うので、ありがたく参考にさせていただく。
すなわち『東京ゴッドファーザーズ』は『日本版イエス・キリスト物語』なのではないだろうか。その名を使ってはいるが、日本式に翻訳された全く違う聖なる話といったところだろうか。どう言語化しようとしても語弊が生まれそうなので最大限注意深く書く努力はしようと思う。
『モンティ・パイソンのホーリー・グレイル』はなかなか毒々しいイエス・キリスト物語のパロディであったが、僕にとっては『東京ゴッドファーザーズ』も同じ翻訳もののひとつだと考えている。
今敏においては、あるいは日本の宗教風俗においてはハナちゃんは聖母マリアなのかもしれない。
日本人の宗教価値観を再考し、オネエことばの力やメディアにおけるオネエの表象について述べた後、ハナちゃんとは何者か、今敏監督が何を伝えたかったのか考えていきたい。
1.日本の宗教風俗と『東京ゴッドファーザーズ』
天照大神、須佐之男命伝説や、漫画『鬼灯の冷徹』小説『四畳半神話大系』や『物語』シリーズを見ていると、日本の八百万の神々はどこか庶民的な一面があるのが通説らしい。また水木しげる作品や講談、落語で伝承される妖怪伝説においても同じことが言えるだろう。
定島尚子(1995)によると日本では「人間を神と観念する」。³⁾「日本では、神が容易に人間に権化するように人間は神になるという意識があるようだ。」
さらに神には「二面性」があることも特徴だという。「御霊や妖怪等、日本の神は人間にとってプラスの存在からマイナスの存在へ、マイナスからプラスへと移行可能な存在」と語る。まさしく、神の人間らしさ、いわゆる庶民性につながる特徴だろう。
また『東京ゴッドファーザーズ』には建物が顔のように見える演出がいくつかある。今は「これら建物の顔に代表される都会に潜む「神々」」は「登場人物を「見ているだけ」であり、登場人物が困っているからといって助けるわけでも励ますわけでもない」と語っている。
建物に宿る神として、アニミズム的な神を描いているのだ。梅原猛(1989)は「キリスト教の神は超越神であり、人格神である」と述べ、「キリスト教では、神の子イエスの行為と言葉によって、神の意志が示現されるとする。そこではやはり人間が決定的な役割を果たす。人間のみが、神のみ姿を持ち、それは神のみ姿を持つことによって他の動物に優越する」⁴⁾としている。このことを踏まえても、今敏は素直にキリスト物語を語っていないことが分かる。加えて言えば、「何もしない神」というのも実に日本の神的である。八百万もいれば何もしない神もいるという考えが通念として存在するように感じるのだ。
また、『東京ゴッドファーザーズ』には一貫して相反するものが描かれている。
クリスマスの夜、神父の言葉を熱心に聞くハナちゃんと悪態をつくギンちゃん。人を救う宗教とホームレス(これは近いとする考えもあるが)。涙の天使から落ちてくる少女のつば、東京都庁の下に段ボールハウス、赤ちゃんと墓地、結婚式と銃などがそれである。すべてがごちゃ混ぜ。まるで日本の宗教風俗を物語っているようである。キリストも仏陀も愛するそれは、アニミズム、この国には八百万も神がいるとする観念から来るものではないだろうか。
極端なものを描くというのは、そのどちらにも近寄らない視点を持ち、その状況を皮肉る今敏らしい表現でもある。愛だけでは腹は満たされないという感覚と、ハナちゃんという冗談めいた存在の重要性を同時に語っているのだ。そこには、そんなハナちゃんもホームレスであるという皮肉を込めながら。
2.メディアに表象されるオカマとハナちゃん
そもそもオカマとは何か。それはたびたびセクシャルとジェンダーが混同する。木場安莉沙(2017)は「「本人のアイデンティティが男性であり、男性を性愛の対象とする人」や「本人のアイデンティティが女性であり、男性を性愛の対象とする人」など、個々によって性的アイデンティティは異なるはずだが、そうした差異が平面化され、混同されている。」⁵⁾と述べている。
ハナちゃんは男性が性愛の対象らしいが、性自認の方は明らかになっていない。また、性自認にもさまざまなものがあるため、一概にこうであると断言するのは良くないので避ける。ブログを読んでいると、今自身、種類があることは知っているが、混同している節があるようである。
そのような表象の問題は、当事者たちも混同しているところを見ると幾分か仕方ない部分もあるかと思うので、ここで私的ジェンダー論を繰り広げるつもりはない。
しかし、メディアに表象され、ステレオタイプ化したオカマ像とはどのようなものだろうか。
木場(2017)は「「おネエ」タレントや「オカマ」キャラが男女二元論に照らし合わされたとき、セックスとジェンダーという二つの指標が呼び出され、彼/彼女らはセックス上は(本質的には)男性であって女性ではないが、ジェンダーとしては男性でなく「女性以上に女性」である存在として表象されている。」⁶⁾と述べている。
またハナちゃんは俗に言う「おネエことば」を話す。男性が話す女性言葉、さらに言えば、誇張された女性言葉を「おネエことば」と称する場合が多いだろう。創作の上でオカマを描く場合、「おネエことば」は分かりやすく他者化できるという点で必須のもので、時には(多くは)差別的な意味合いが込められてきた。
クレア・マリイ(2015)は「おネエことば」について「「おネエことば」は、相手を楽しくけなしていくゲイの、特にバーの文化の中で芽生えた言葉を借り入れて、そしてメイクオーバーの対象となる人を楽しくけなして、そして育成していくためには有効なことば」であり「毒舌にはかかせないもの」と述べている。(ここでいうメイクオーバーというのは「ライフスタイル・メディア」において「変身していく」という意味合い)⁷⁾
3.ハナちゃんという聖母
先に説明した通り、ハナちゃんはメディアに表象されてきたオカマ像とそう差異のない描かれ方をしている。
ブログを見る限り、今はあえてそのような描き方をしている。ステレオタイプのオカマを描いて今はハナちゃんに何を背負わせたかったのか。ハナちゃんは物語においてどういう存在なのか。そして何を語りたかったのか。
今はハナちゃんについて「トリックスター」だと言う。さらに「トリックスターは時にいたずら者、災厄を招くものであり、時に英雄的性格も持ち得るという魅力的な存在である」⁸⁾と述べている。
赤ちゃんを拾ったなら多くの人は警察に届けるだろうが、ハナちゃんはそうしない。ハナちゃんがそうしなかったことで物語は動き出す。こうしたトリックスターの役割を担うハナちゃんは「おネエことば」を話す。
そんな特徴を持つハナちゃんは「おかん」のようなポジションを担っていく。「おかん」については感覚的な話になってしまうのだが、「母親」より庶民的な母親像を指している。
ハナちゃん、ギンちゃん、ミユキが疑似家族であるのは明白であるが、清子とハナちゃんに名付けられる赤ちゃんはそこに参入する新たな家族だ。すでに疑似家族の中の役割として母親を担っているハナちゃんを、12月25日に拾われた清子の母親、すなわち聖母マリアだと考えるのは突飛ではないだろう。
『東京ゴッドファーザーズ』がただのイエス・キリスト物語ではないことはさきほど明記したが、その理由の一つはハナちゃんが聖母マリアであるという点だ。
ハナちゃんがオカマであるということは、赤ちゃんの母親ではないということだ。ハナちゃんが母親になりたかったという夢を語りながら、清子にミルクをあげるシーンがあるが、それは「(実の)母親になれないこと」の象徴的描写である。母親になれないハナちゃんが見知らぬ赤子にミルクをやる。これが「無償の愛」でなくて何であろうか。
ステレオタイプ化されたオカマの描写で無償の愛が表現されているのだ。
4.日本の宗教風俗とメッセージ
なぜ聖母マリアがオカマなのだろうか。特別な理由がない限り、マリア役を担うのはシスジェンダー女性でありそうなものである。
今は「母親役を本当の女性にしてしまうと、「疑似家族」というある意味冗談の含有率の高いモチーフが、あまりに本当の家族らしくなりすぎてしまう危険もあり、それを無意識に回避したのかもしれない」⁹⁾と語る。
本当の女性が何なのかという問題はひとまず置いておくとして、意図があることは明白である。
それは今の言う「日本の宗教風俗」と結びつくのではないかと考える。すなわち何もかもごちゃまぜの、すべてが神になりうる宗教観である。
『東京ゴッドファーザーズ』のキャッチコピーには「イエスの奇蹟に八百万(やおよろづ)の祝福。おっと仏陀も一緒だよ」というものがある。今はそういう宗教風俗を「回復したい宗教性」¹⁰⁾と語っている。
すでに根付いていると思われている日本のごちゃ混ぜな宗教価値観を回復したいというのである。今はそういう日本の宗教風俗は失われてしまったと考えていたのだろうか。
もしそうだと考えるなら、この映画で今はハナちゃんというトリックスターにマリア役を担わせ、「日本の宗教ってこういうのだよね?」と日本人(日本の宗教風俗に触れている者たち)に訴えかけているのではないだろうか。
それは今日まで続くLGBT問題はもちろん、ホームレスに対する差別発言問題など含めて、日本の宗教風俗では全部を受け入れていくものだったのではないか?と。
参考文献
1.KON’S TONE 東京ゴッドファーザーズ
2.同上
3.日本における社会意識としての神観念、定島尚子、1995
4.アニミズム再考、梅原猛、1989
5.子供向けテレビアニメにおける「オカマ」キャラの表象:性的イデオロギーと想定される参与者からの排除、木場安莉沙、2017
6.同上
7.招待講演 言語的カオスのクィア・リーディング:テキスト・イメージ・デザイヤー クィア理論と日本文学ー欲望としてのクィア・リーディング、マリィ・クレア、2015
8.1同
9.1同
10.1同