「私」が幸せにならないと、「私たち」は幸せにできないのか?
非常に経済的に厳しい立場におかれ苦労されながら、お子さんを一人で育てられてきた方が「信じられるのは私だけですから」とお話されている記事を読んだ。
読んでいて、その方がどんなに大変な思いをしながら生きてこられたか。胸がギュッとしたと同時に、「私」と「私たち」について考えさせられた。
今自分が住んでいるスウェーデン。北欧はいわゆる「幸福度ランキング」が高い国々だけれど、実際に住んでみて理想郷は無いと感じたし、日本の方が住み良いなと感じた部分もいくつもある。
まだ住み始めて半年だけれど、気づいたこととして。欧米は個人主義というイメージがあったけれど、少なくとも北欧はなんだか「私」と「私たち」との境界線が曖昧な感じがした。
なぜか? 真っ先に手厚い社会保障が思い浮かんだ。でも制度そのものは、ある意味で表面的な事象にすぎない。
それが私、そして私たちにとって何を意味しているか? 少し時間を取って考える。うーん……。
「私」が「私たち」によってまず支えられているという感覚。
それが何より根本にある気がする。
北欧はその感覚を社会保障によって作り出していると感じる。
スウェーデンの人たちは声高に自己主張をするタイプではない。また「社会を変えてやる!」と息巻いている人にも今のところ会ったことがない。
(社会を変えるという想いは大切で、それを自分の「自己実現」のために不必要に主語を大きくしている人がたまにいるので)
スウェーデンに暮らす中で出会った人たちは、淡々と「私」の暮らしを作っているように見える。
一見主語は「私」で完結しているのだけれど、その「私」の暮らしは「私たち」によってしっかりと支えられている。そんな共通認識があるように感じる(なので投票率も8割を超えているのかしら)。
スウェーデン出身のグレタさんのように、たくさんの人を巻き込んで大きな社会課題に向かおうとする人も、結局は「私」から問いが出ている。
この主語の捉え方の話、一見大したことがないように聞こえるかもしれないけれど、実は人の「生き方」そのものに直結しているんじゃないだろうか。
「私たち」が支えられているという感覚があるからこそ、
「私」についてじっくり考えることができる。
おそらくこの考え方は「強い」人には届かないかもしれない。なぜなら、強い人は自分で自分や、周りを支えることができるから。「自己責任」が叫ばれる世の中を、苦労して生き抜いてきただろうから。そのこと自体は否定されるものではない。
自分は決して強い人間ではない。今も誰かを支えるどころか、支えられてばかりだなぁと思う。
でもその自分の「弱さ」を認めて、至らなさに打ちひしがれるのではなく。舌をぺろっと出して受け入れてもらうぐらいの「私たち」がいることで、「私」は生き生きと未来について考えることができるんじゃないだろうか。
「私」か「私たち」かの択一ではなく。
「人は一人では生きられない」「人は究極、いつだって孤独だ」
きっとどっちも正しい。
「まず何よりも『私』が幸せにならないと、人は幸せにできないよね」
よく耳にする言葉だ。自分自身もそう思っていたし、その考え方自体が間違っているとも思わない。
でも、もしかすると、「私」を考える以上に「私たち」をどう捉えて、考えていくかが大切なのかもしれない。
「私たち」で考えられる場の存在が、「私」の幸せを作る上で大事なのかもしれない。
きっとnoteはそんな場の一つかもしれない。
自分も、そんな「私たち」の一つになれる場を作れたら良いなと思う。
……表題の問いにすっきり答えられた感じはしませんが、特にこうすべきだと言いたい訳ではなく、一緒に考えてくれる人がいたら嬉しいなと思い、言葉にしてみました。
ちなみに冒頭の写真はスウェーデンの湖に遊びに行った時、気持ちよく一人でギター弾いてる自分です。笑 それを後ろから気づかぬうちに撮ってくれていた友人がいての写真。 「私」と「私たち」と。