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急に具合が悪くなる② 「選ぶ」ということ
前回、『私たちは色々な可能性が広がる世界の中で、その都度自分の進む道を選んで生きていくのだ。』と書いたが、「選ぶ」というのはそう簡単なものではない。
人類学者のメリー・ダグラスによると、どんな民族でも確率的な考え方を持ち、確率論的な行動をとるという。つまり人は誰でも合理的に考えて、正しい道を選ぼうとするはずだ。
でも、選ぶことができなくなることがある。
じっさい、病状の悪化とともに私に残された治療法は減っていました。もはや保険が適用される標準治療の範囲内でできることはほとんどありません(標準治療はやり尽くしたというのが正しい表現です)。医療の進歩のおかげで、保険適用の標準治療が終わってなお、緩和病棟に入るほど全身状態が悪化していない患者というのは、現在増えています。そうすると、自由診療に向かう人が多いのですが、ここはまさに〈かもしれない〉の荒野です。
〈かもしれない〉の荒野に立たされた人たちは、合理的に判断し選ぶことが難しくなる。そんなとき、誰かに正解を教えてもらえたらどんなに楽だろうと思うことはあるだろう。
このような場合、私たちは判断の基準を経験値に基づく確率論から、誰を信頼するかに切り替えるとダグラスは述べます。そしてその人に自分の代わりに決めて欲しいと思うのです。
では、ここで誰を信頼するのか。医師なのか。家族なのか。友人なのか。それともAIなのか。例えばAIなら、私の今の状況を合理的に判断して最適な解を瞬時に出してくれるのではないかと思い、決断を任せてしまうかもしれない。
宮野さんもホスピスを選ぶという人生における大きな決断を迫られたとき、どんなに情報を集めても自分自身がどうなっていくのかをイメージすることができず「選ぶの大変、決めるの疲れる」の状態に陥ったという。
そしてとりあえず京都に帰りたいという自分の思いに素直に従い自然に動いた結果、ここにしようと思える病院に偶然たどりつく。
合理的に比較検討することはできるけど、私たちは本当に合理的に「選ぶ」ことなんてできるのだろうか、そんなふうに「選ぶ」ことが「選ぶ」ということなのだろうか、と。結局のところ、何かに動かされるようにしてしか決めることができないのなら、選ぶとは能動的に何かをするというよりも、ある状態にたどりつき、落ち着くような、なじむような状態で、それは合理的な知性の働きというよりも快適さや懐かしさといった身体感覚に近いのではないか、そして身体感覚である以上、自分ではいかんともしがたい受動的な側面があるのではないか、と。
宮野さんは合理的に「選ぶ」のではなく、身体感覚に導かれて答えを出した。AIには身体感覚までは汲んでもらえないだろうから、何も考えずAIに決断を任せるのは間違っているといえる。
では身体感覚という非科学的なものを信じれば、正しい答えを出すことができるのかと言うと、決してそうではないと思う。宮野さんは、現実に直面する強さを持っていたので、どんなに苦しい状況になっても自分自身で考えて考え抜こうとした。こうして悩んだ挙句、身体感覚に導かれたのだろう。もうこの時の身体感覚とは悟りに近いものなのかもしれない。