15曲目 場を創るお仕事とパーティークリエイト
ミュージシャンが曲を制作してみんなに届けるように、自分は文字を書いて今1番フレッシュな言葉をデリバリーする気ままな日記。
ひとまず石の上にも三年と腰据えて挑戦しているこの文字のデリバリー。最近の楽しみはと言えば、朝ドラのカムカムエブリバディー。上白石萌音はどちらかと言えば苦手でしたが、この役は適訳で演技が素晴らしい。平和な時代が時に息が詰まるなんて贅沢を言う人もいるが、大切な人を亡くし、家や仕事も無くし、明日すら見えない戦後。とても考えさせられるドラマ。
僕はその真逆で演技力もなければ歌も特別上手な方でもない。おばあちゃん、両親の影響で、音楽には早くから触れていたぐらい。自宅にはアナログ盤が聴けるレコードプレーヤーがあり、サーフミュージック好きな父、竹内まりや、山下達郎などCITY POP好きな母、オフコースから細川たかし好きなお婆ちゃん。家の棚にずらりと並ぶレコード盤とカセットテープ。竹内まりや聴くと未だにおかん思い出すぐらい、家でよく流れていた記憶。
このラインナップから分かるように、ビースティ・ボーイズやRUN DMCなどが、自宅の棚にレコメンドされる訳もなく、ラップと言えばイーストエンドやスチャダラ、ZOO、スキャットマン、TRFのDJ KOOみたいな、このカルチャーをちゃんと理解せず、イメージ先行で地元のツタヤには並べられてた記憶がある。後に、コアなタイトルが並び始め心躍る10代でこのブラックミュージックにのめり込んでくわけやが。
ガキの頃から全く人前に立つタイプちゃうのに、なぜかいつも目立つ場所に立たされるそんな運命。自信のない何の取り柄もない、そんな小倉少年がいきなり背中押されてマイク握らされた瞬間から全て人生が変わった。
その前にラップと出会う前、パーティー作りをしたくなる経緯の話を少しだけ。
大阪時代から地元にあるミサワボールってとこによく通ってたんやけど、最新のレコードからディグればディグるほど、レアなレコードがお手頃な価格で買えた。当時から歌う事より、周りがダンサーが多かったせいか、センスの良い音とファッションに囲まれてた。自分も少しカジったけど、なぜかリズム感なくセンスないことに気付き早々引退。選曲担当で良くこの曲どう?ってセレクト、提案側に回った。
フロントマンなイメージあるけど、実は裏方にいる自分の方が気持ちも楽やし、なんかその方が自分には向いてる気がしていた。あまりみんなから注目されるより、じわじわこの楽しさや良さをわかってくれる仲間といる方が心の満足度は高かってんなー。
ブラックミュージックにハマるきっかけは、ダンサー仲間が多い事からか、REDMANやノーティーバイネーチャー、EricB & Rakim、Group Home、ジャケットジャクソン、TLC辺り。普通はBIGGIEやNAS,WUTANGとかカッコ付けて答えたかったけど、そっちよりはATCQなど乾いたドラムやスネア、固いキックの音を、市役所の鏡の前で爆音で鳴らすのが、とにかく気持ち良かった。訳も分からずながら、そのGROOVEに踊り子達が自由に舞ってる姿が本当に羨ましかった。
せめて、自分も何か役割が欲しいってなって居場所探しを始める。てな事から、自分一押しの曲をカセットテープにダビングして、みんなに聞いてもらっては存在価値をアピる。居心地良い空間を演出するにはどうしたら良いかを考えた、原付バイクのライトをステージに向けてピンスポ作ったり、今考えると完全演出側。
そんな目立ちはするものの引っ込み思案だった自分がRAP始めるきっかけになったのは、18歳の頃。婆ちゃんが病に倒れてから家庭環境がグラグラし始め、思春期抜けかけの17,18歳頃。とにかく家にいてはその見えない不安を吹き飛ばすように歌詞を書いては歌っていた。今思えばクソダサいラップ達やろけど、魂は乗ってたはず。
岡山に来てから、最初に仲良くなったラッパーであり服屋の先輩に連れられ、夜遊びを学ぶ。
真っ暗でミラーボールが回る地下のクラブJ。最新のファッションと怪しい香り、歳上のギラついたお兄様、お姉様が怪しく輝く場所。今思えば街で幅を利かせてはいたが、社会にはなかなか馴染めない大人の集まりだった気がする。そんなネオンに吸い込まれ、音楽パーティってモノに触れていった。
バーカウンターには、当時みんなのマドンナ的存在のお姉さんRさん。インテリ女子から絶大な人気を誇るMさん。この二代女性スタッフに、キャッシャーには地下の門番メガネがトレードマークのYさん。オーナーのSさんはロン毛でいつもニコニコしてたイメージ。1番奥にはソファー席があり、そこには各界の重鎮クラスが鎮座する。その横には巨大なスピーカーが二発あり酔っ払ってそのスピーカー前に立とうもんなら吸い込まれてくヘッズをよく見たもんだ。何吸ってんだか 笑
アナログが温かく、時に繊細で壊れやすいこの昭和から平成への時代はとても刺激的でアンサスティナブル。とにかく消費してくる足し算掛け算が楽しかった時代。
時は変わり、アーティストなら小使い稼ぎでYOUTUBEや配信で稼ぐこともできるが、それ一本では難しい時代の令和。より本質的な事が求められながらも、LIVEやグッズのクオリティー強化も必要。
何より人が集まりにくいなら、そこに繋がる道=インフラが必須。複数本の柱を持つことで、より本当にやりたいことに近づけると思ってから、自分もこの書き物も始めた。オンラインライブなんかまさに今の時代の稼ぎ方。素人がプロより稼ぐから、また色々ややこしい。
スポンサーがつくと設計はしやすいけど、確実に自由度下がるし、そこから切られてしまう弱点が出てくる。そこは出来る限りリスクヘッジしたいから、個人レベルである程度までファン作りを実力でつけていかなあかん。それはアーティストも経営者も似たもん同士。
アーティストとしても経営者としても、徐々に名前が売れてくると、イベンターからオファーがかかるようになる。当然人気商売やから、人気出るイコール人を集めやすくなる。そうなるとイベンターは楽に集客しやすくなる。クラブも人が入れば基本OKな考え方の打算的なオーナー多かったので、まずそっから勝たせたほうが早いなーと思ってイベントを立ち上げた。ただ、これ以上はダサくなるからやらないの線引きが大切。青山テルマ限界の倖田來未はNGやろー。みたいな曖昧なルールやったけど。笑
イベント立ち上げた理由は簡単。CD盤プレスも自主レーベルすら立ち上げれない先輩連中に憧れはハナからなく、俺やったらもっとこうするやろな、を周りに語っては行動に移したまで。あと、自分がカッコ良いと思ってへん先輩に頭下げるの嫌やったし。
あとは単純にラップして綺麗な女の子にモテたかったw 最初はそんなもん。シーンの為とか、アンダーグランドヒップホップがどうとか偉そうに言ってるけど、音楽で飯食えてへんし、お前一回もNY行った事ないやんけー。見たい人ばっかやった。本場知らんやつが本場語んなや。ぐらい尖ってましたねー。今考えるとどんだけ生意気やねん。でも、だから残れた。
同じ年代に生きる世代が媚びながらイベントオファー待ちの間、尊敬する先輩ラッパーがクルー脱退をきっかけに、すごく良いクルーやったけど、彼のいないクルーに未来を感じれなかったから、とっとと辞めた。
人気クルーを抜けた後の人間の氷点下級の手のひら返しにビビりながら、相変わらず媚びない自分は生意気で、さぞイケテナイ先輩、後輩方に嫌われてたと思う。カッコ良い売れてる先輩方はみんな肯定的に応援してくれたから全然大丈夫やったけど、足引っ張るヘイターさんは、まー迷惑やった。お陰様で強くなれました。
だから、そうしたいけてる先輩のアドバイスや背中を見本に、自分と同級生とでさっさとクラブ借りてイベントを立ち上げた。その当時では新しい、ダンスとレゲエとグラフティーライターを混ぜ込んだ。みんな良いものあるのに、ジャンルがーとか、スタイルがぁーとか、大した結果も残せてないやつほどうるさかったから、ガチンコでさぁー、それならやってみてよ。そんな挑戦も込めてごちゃ混ぜにして企画したらこれまた反響良く、その後当たり前にこのスタイルがパクられてったなー。笑
そのイベントに、当時タブーとされていたメジャーアーティストを沢山呼んでいった。理由は、コアなファン層のイベントばっかやったから、これを広げてマーケットにしてくには、一般のお客さん層の前で、カッコ良いライブやって普段のレギュラーパーティーに来てもらいやすくしないといけないと思った。コアより一般の人のがハマればファンになりやすいってことは分かってたので、自分のやりたい事を応援しやすくなってくれるファンをいち早く獲得するにビッグパーティーは必須と、考えていた。ファンがつきさえすれば、挑戦はかなりしやすくなるから。
初回動員数は確か600−800ぐらいやったと想う。この200の差は、出演者やGUESTも入れてやから、正味お客さんだけで600ぐらいはおったはず。
なぜそのメジャーアーティストを呼んだかは、同級生がそのメジャーアーティストと繋がってたから。正直、自分はあんま興味なかったし、他に呼びたいアーティストいたけど、パートナーの彼の顔を立たす意味でもやってみた。そこでそのアーティストにも参加してもらって、地元アーティストの新曲入りのコンピアルバムを無料で配りまくった。ライブの楽しみは、知ってる曲がかかった時の自分だけが知ってる高揚感と、そのニッチなコミュニティでの一体感が何より1番の快感だ。そうした地道な影の努力がこのパーティーの成功を作った。
なんでそんだけ継続的に人が入ったかと言うと、もう一点はドブ板営業力がずば抜けてた点。それまでは、自称アーティストさんのが立場が上で、お金払って来てくれたお客さんが自称アーティストに頭下げてるような構図が当たり前やった。今考えたら何様やねんやけど、当時はそれが当たり前。逆にその距離感があったから良かった点も多々あった。今の時代はアーティストがファンや世間に媚びすぎる。勿体ない。
うちのクルーの先輩は別格で人気クルーやったし、実績も東京のコンテストに入賞したり結果残してたから、全然それでも良いと思う。夢見させてたし。大した事ない自称ほど、めっちゃ威張ってた。
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