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三浦監督の野球観を作り、80年代後半の西武、巨人を強くした男・近藤昭仁
お断り
今回の記事の中には一部の方に不快な印象を与える記述がございますことを予めお断り申し上げます。あくまで1ファンの私見ですので科学的根拠や歴史的史実に裏付けられた記述でないことをお詫びいたします。
岡崎郁も伊東勤も恐れた鬼軍曹
近藤昭仁さんといえば横浜ベイスターズ初代監督。岡崎郁さん、伊東勤さんは巨人、西武のヘッドコーチとして鬼軍曹だった近藤昭仁さんについて語っています。ドジャースの戦法を両チームに徹底して教え込んだコーチで、主力の原辰徳氏にも激怒して、若手もベテランも関係ない鬼軍曹ぶりは80年代後半の強かった西武、巨人を作ったコーチだと語ります。ドジャースの戦法についてはV9時代に巨人の牧野コーチが川上監督からドジャースの戦法を渡され、読みつくしてドジャースとのベロビーチキャンプなどでの勉強も含めて、巨人に根付かせた戦法です。この野球戦略が後の日本野球のセオリーとして定着したのは巨人V9という強烈な成功によるものでしょう。それまで高校や大学のアマチュアの強豪が、独自に発展させた戦法を肉体的苦痛を伴う練習を経て、体に覚えこませるというやり方がメインでした。しかしドジャースの戦法は明確な作戦が書物としてあり、伝承するというよりは頭で覚え、体で実践するという形に体系化されています。V9前に巨人を退団した広岡氏もアメリカ留学でドジャースの戦法を独自の海軍式管理野球に落とし込みヤクルト、西武で花を開かせました。また南海の野村克也氏も巨人の頭脳だった森捕手からドジャースの戦法を聞き出し、カージナルスの名二塁手だったブレイザーをヘッドコーチとして独自の野球方法としてヤクルト監督時代のID野球に繋げます。ドジャースの戦法が日本独自の形で進化する中で、広岡→森の西武管理野球を学んだ近藤昭仁が、巨人藤田監督のもとでヘッドコーチとしてV9時代の野球を巨人に叩き込むというのも面白いところです。
監督としてベイスターズに戻った鬼軍曹
近藤昭仁氏は1960年に地元高松の先輩であり、早大の先輩である三原脩氏が監督に就任した大洋ホエールズに入団します。165cmと背が低い近藤氏は三原氏は「プロでは使えない」と叱責します。これが三原流の反骨精神を引き出し、本来以上の力を引き出す魔術でした。1年目から大洋のレギュラーになり、リーグ優勝に貢献、日本シリーズMVPになりました。三原流のやり方は、その後近藤昭仁氏にも引き継がれ、選手を叱責することはあってもむやみに褒めないで、反骨精神を引き出しました。巨人のヘッドコーチ退任後、1993年横浜ベイスターズの監督に就任すると、大味なチームと言われたベイスターズにドジャースの戦法を叩き込みます。この野球は入団2年目の三浦監督、野手転向2年目の石井琢朗には大きな影響を与えます。監督としては近藤昭仁氏はトレードなどにも口を出し、巨人・長嶋監督との間で佐々木主浩+進藤達也⇔岡崎郁+駒田徳広のトレードを固めます。しかしながら、近藤昭仁氏がマスコミにこの話を漏らしたことで、長嶋監督がこのトレードを白紙撤回しました。ただ、駒田はこの頃、中畑コーチとの確執があり、長嶋監督とも関係が悪くなりFAでベイスターズに移籍します。
監督としての失敗
近藤昭仁氏はベイスターズの監督として93~5年1度もAクラスになることなく退団しました。ただ盛田、佐々木のWストッパーと言われる現在で言うセットアッパーとクローザーの組み合わせを前任の江尻代理監督時代から引き継ぎ、そこに五十嵐、島田といったリリーフが台頭して、リリーフを充実させた投手構成をベイスターズに根付かせました。バントやエンドラン、スクイズを多用する「緻密な野球」を標榜しましたが、特にスクイズは相手バッテリーに見破られることが多く、ドジャースの戦法と行き過ぎた小技の野球でチームの勢いを削ぐところがあったかもしれません。V9時代の巨人でも年間50前後の犠打しかなかったことから、ドジャースの戦法ではなく、さらに古い正岡子規の時代の野球を近藤監督は取り入れていたのかもしれません。1996年ロッテ監督に就任すると1998年にはNPB史上最長記録となる一軍公式戦18連敗するなどして退団しました。退団会見で「監督は孤独な職業だが、何度もやりたい職業。次は弱いチームじゃなくて、強いチームで(監督をやりたい)」と発言したことで話題になりました。コーチとして西武、巨人で機能した近藤氏ですが、トップに立つ人が嫌われ役になってしまうと選手に同じ方向に向かせることは難しいのかな?と感じました。また三原、広岡といったかつての名将が、選手たちに嫌味を言って負けず嫌いの魂に火を点けさせてチームを強くしたといった手法は90年代には徐々に通用しなくなっていたともいえるでしょう。