渡邊恒雄さんのご逝去でNPBは変わるのか?
お断り
今回の記事の中には一部の方に不快な印象を与える記述がございますことを予めお断り申し上げます。あくまで1ファンの私見ですので科学的根拠や歴史的史実に裏付けられた記述でないことをお詫びいたします。
12月19日渡邊恒雄さんご逝去
2024年12月19日読売新聞グループ本社代表取締役主筆渡邉恒雄さんが98歳でご逝去されました。戦後、政治記者として大野伴睦に張り付き取材し、中曽根康弘元総理大臣の懐刀として1980年代の政財界のフィクサーと呼ばれる人物でした。1989年に読売グループの最高経営会議メンバーになってからは巨人軍の運営及び日本プロ野球の運営に対して発言力を持つようになりました。逆指名ドラフトやFA制度については発言力を発揮したと言われます。サッカーに対しては1993年Jリーグ発足時に、1969年から読売ベルディというプロに近いチームを運営していた関係からNPB方式の親会社名を入れたチーム名や本拠地の考え方を川渕元チアマンから全面否定されてことで、関係が悪化。Jリーグ創設当初は巨人同様に日本代表メンバーをそろえた圧倒的に強いチームだったベルディの運営から後に手を引きます。その後、プロ野球再編問題では選手会と対立しました。戦後日本のフィクサーであり、プロ野球運営のご意見番でもあった渡邊恒雄さんのご逝去をお悔やみ申し上げます。
日本プロ野球は読売新聞が作った
春の選抜高校野球大会を毎日新聞が主催し、夏の全国高校野球大会を朝日新聞が主催していた時代、1931年読売新聞の正力松太郎氏が中心となってメジャーリーグ選抜軍を日本に招待し、全日本代表チームや六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功をおさめました。当時MLBのホームラン王で日本でも有名だったベーブルース来日実現を目指した正力氏は1932年に文部省が発令した野球統制訓令によって、日本最強だった大学選抜チームとMLB選抜チームの試合ができなくなったことを受けて、1934年職業野球団を作り、第1号プロ選手として三原脩、2号として苅田久徳と契約して、日米野球のためのプロチームが結成されました。1935年現在の横浜スタジアムでメジャーリーグ選抜と全日本選抜(職業野球団)が試合を行ったのが日本のプロ野球の始まりです。この興行が大成功し、この時プロ契約した選手を中心に作られたのが現在の巨人軍の前身である大日本東京野球倶楽部です。このチームがアメリカ遠征の後、1936年日本職業野球連盟ができて、名古屋金鯱軍や大阪タイガースが参加して、プロ野球が始まります。この歴史からも現在のNPBの前身は読売新聞が作ったといえます。こういった経緯もあり、二リーグ分裂後のNPBに於いてもずっと読売新聞の発言力はプロ野球に影響を与えてきました。
戦後プロ野球隆盛は街頭テレビがきっかけ
アメリカの上院議員からの働き掛けもあり、読売新聞の正力松太郎氏は日本テレビ放送網の構想を発表し、1952年にはNHKよりも早くテレビの放送免許を取得しています。1953年には巨人阪神戦をテレビ中継し、読売新聞社街頭テレビを首都圏55か所220台設置しました。力道山のプロレス中計では新橋駅前の街頭テレビに2万人が詰めかけました。プロレスと共に巨人戦中継でテレビは全国に普及していきます。1959年はじめての天覧試合で長嶋茂雄がサヨナラホームランを放ったことで、プロ野球は国民に完全に浸透します。フランチャイズ制を敷くNPBですが、テレビ中継は読売新聞が主導したこともあり巨人戦の人気が凄まじく、セ・リーグ各球団は自軍ホームゲームの巨人戦の中継権利金と親会社からの宣伝費でチーム運営できるぐらいの状況になりました。一方で巨人戦がないパ・リーグは人気低迷します。
読売グループの求心的リーダーがいなくなったことのプロ野球への影響
読売新聞中興の祖である正力松太郎氏が亡くなった後、正力氏に勝るとも劣らない政治力のある渡辺恒雄氏が登場し、プロ野球には多大な影響力がありました。今後、そういった求心力のあるリーダーがいなくなった場合、NPBはどうなっていくのか?巨人中心の野球界は変わるのか?Jリーグ発足時の川渕元チアマンのような人物が出てくるのか?放映権料をNPBで管轄し球団へ分配するMLB方式を取り入れるチャンスかもしれません。
DeNA型スポーツビジネス経営
MLBでは既に放映権料等を連盟が管轄して、球団へ分配しています。またNPB球団の大半のように親会社の宣伝費で運営するという思考はありません。DeNAは既にベイスターズを利益がでるプロスポーツチームにしています。フランチャイズの横浜市とも組んで本拠地エリアの経済活性化のプランにも参画しています。プロ野球を取り巻く環境が巨星の死に伴い変わったとしても収益が出るチーム作り、そして勝てるチーム作りができるはずです。