ルックバックにおける不条理と加害性についての疑問
ルックバックにおける不条理と加害性
まず、僕はルックバックを批判したいわけではないし、そこまで詳しくない。漫画を読んで、アマプラで映画を観た程度で、元ネタとか知らない。Don't Look Back in Anger のネタとかはちょっと見た。そして世間の評価がかなりマズいと思っていたりする。
理性と感性の乖離の問題がある。僕はルックバックを見て普通に泣いたが、それは「泣く」という機能のもので、だからこそ間違いなくある一定のベクトルには素晴らしいと言える、と思う。けれども正直、藤野が残されて、京本が理不尽に晒されて死ぬ、そこから立ち直るというストーリー自体は泣けるものであって(もちろん描写とか演出とかは巧みなのだけれど)当然というか、このシチュエーション自体泣かすものだよなって思う。よくあるシチュエーション。だからこそ手放して賞賛してはいけない、と感性とは別の理性が訴える。
ルックバックは時代性を反映した話であると捉えられる。それはいわゆる京アニ事件のせいとも言える。Don't Look Back in Anger、というメッセージはそういう理不尽にあてたものとも言える、はずだ。「僕たちは不条理に晒されても、理不尽な目にあっても「怒りを持って過去を振り返るな」」、果たしてこのストーリーにおいて、このメッセージは正しいものなのか。或いはこの怒りは自己へ向けたものなのか、他者へ向けたものなのか。(印象としては後者である、というか前者である場合、京アニ事件を取り扱った理由がない)
まずストーリーにおいて、この京アニ事件を示唆する描写はほとんど捨象されている。その意味でリアリティは無いと言える。焦点は藤野の心情に当てられていく、そこには後悔というものだけがあり、怒りというものはない。(ここ読み違いだったらごめんだが、初感ではない気がした)この描写もあんまり良くない気がしている。Don't Look Back in Angerというメッセージを秘めるべきだったら、こんなに殺人を不条理なもの(震災など)のように扱うべきではない。殺人を他者という同一存在が行ったものとして捉えないといけない。というか、不条理なものに対する感情は自己への怒り→後悔→諦念に変わるが、怒りから諦念という過程すら書かれておらず、ただ罪悪感が残る。その点不条理なものへの解像度も低いと思う。だから京アニ事件を不条理として捉え、不条理を描く作品としても中途半端だし、藤野の加害性が罪悪感に隠されているところも良くない。
ここからが本題なのだけれど、殺人事件を不条理と捉えていいのかという疑問を呈したい。そこまで僕らは被害者なのだろうか。
自殺を不条理とした作品に「ノルウェイの森」があるが、あれも良くない。自殺も殺人事件も不条理だと思うのは、僕たちが自殺する人の気持ちも、殺人を起こす感情も知らないからであり、無関心であるからだ。知っていたら不条理にはならない。加害性が芽生えるはずだ。僕と犯人、自殺した人があくまで地続きであると捉え、僕らは潜在的には殺人を犯す可能性も自殺する可能性も持ち得ていること、それをまず理解しなければならない。とか言いたいのだが、それは被害者によりそってなさ過ぎるかもしれない。ルックバックは被害者を代弁しているのかもしれない。被害者にとって殺人事件は不条理であるから。では被害者ではない我々は被害者と同じく、不条理として捉えていいのだろうか。或いは不条理として捉えるほど、我々は被害者を代弁していいのだろうか。
恐らくそうではない。被害者ではない我々にできるのはDon't Look Back in Angerをしながら、加害性を持つこと。それは加害性を内包しているとも言えるし、間接的な加害性を持つこととも言える。社会を作っているのは我々であり、その社会が殺人を起こさせたのだということを理解しなければならない。
ルックバックのように被害者意識を拡大させるのは良いがそんなものは正直言ってありふれている。自殺、殺人は被害者以外は不条理ではない。それとも我々にはそれを不条理だと言えるほど、被害者に成り代われるほど感性が豊かなのだろうか。恐らくそうではない。感性が豊かなのなら、加害者にも成り代われるはずだからだ。
ルックバックを見て「感動した」と思うことは誰でもできる。むしろそのような消費のあり方には、社会問題を扱ったものとして疑問を持つ方が良い。殺人を不条理と捉えるならば、自然災害と何が違うんだろうか。また、個人的に「挫折したことある人、夢を追ってたことがある人は見た方がいい」というよく流れてくる感想も気に入らない。うるせえよって思うからだ。
この文章自体、加害性があるかもしれない。けれども大体の文章は誰かを救うと同時に誰かを破壊する加害性を持つ。僕がやりたいのは、別にどうでもいい人を救うための文章ではなく、届いて欲しい人に届く文章である。加害性に無知な被害者ぶっている大人は置いといて、被害者でありながら、同時に加害者であろうよ僕たちだけは。