痛いところはつかれる
周りで起こる出来事に、自分に対するメッセージを見つけることってけっこうないですか?
たとえば、10日ほど休みを取ろうとすると、必ず職場でチャチャを入れようとしたり、気持ちよく取らせてくれない上司や同僚がいたり。
周りに理解がない、と思ってしまいそうになりますが実はこれ、自分の中にそうした人たちを引き寄せる何かがあるんだろうか?と思って見てみると、とても興味深いことがあります。
自分の頭では「休むのは自分の権利だし、当然」と思っていても、どこかで「こんなに休んだら周りに悪いかな」というような罪悪感や、「10日も休むなんて日本ではまだまだ受け入れてもらえない」なんて思い込みがあったりして。
自分では意識していないようなかすかな罪悪感だとしても、潜在意識のパワーは顕在識の何千倍もあるためそれが波動みたいなものとして外へ出てくるのでしょう。
だから休みを取ろうとすると、ココロの奥底で思っていることを指摘するような人、その罪悪感や痛いところをちょうどつっつく人が出てくる、という具合。
職場を変えるとか、もっと休みを取ることに対して理解してくれる人のいるところに行く、というのもひとつの方法ですが、自分の中の罪悪感や思い込みをなんとかすれば、おのずと変わってきます。
ほかにも、自分では考えたくないことや、思いたくないことを指摘されたり、痛いところをつかれることって、あるものです。
そのときは、反発してみたり怒ってみたりするけど本当は当たっていて、またそれが腹立たしいことも。
わかっているけど人に言われたくない、どんな人にもそうしたところはあるはずです。
でも、結局自分の中の何かに気づかせてもらうために周りで何かが起きているのかもしれません。
もし一事が万事こんな具合だとすると、今の自分に置かれている状況を、自分の中の状態と照らし合わせて、自分が今本当に何をすべきか、見えてくるのがいいところです。
何か人に嫌なことを言われやすいと思うなら自分の中に言われやすい何かがあるのかも。
「この人ならいろいろと言っても大丈夫」と平たく言うとちょっとナメられていたり、見くびられていたりする可能性も。
それは逆に、言われても何も言わない、言い返さない、という普段の自分のパターンの蓄積が、相手に「言っても大丈夫」と思わせてしまうということに。
何でもすぐ頼まれやすいなら、普段から断らないパターンを持っていて「絶対頼まれてくれるだろう」と相手が踏むから。
断る、ノーということがときに自分を守るというのはこういうことなのです。
どういうわけか本能的に断らない、ノーと言わない人をかぎ分ける能力みたいなものを、それぞれにみんな持ち合わせているのですね。
私たち自身だって、これはこの人に言っていい、これはだめ、となんだかんだと計算しています。
たとえば、旅行先で知らない人に写真を撮ってもらったり、道を教えてもらうときに、そういう能力を働かせていませんか。
「あの人なら快く写真をとってくれそうだ」「この人なら親切に教えてくれそう」、なんて。
それはその人の持っている雰囲気、たとえば時間に余裕がありそう、顔つきでなんとなく大丈夫そう、などと、とても不確かなものではあるものの、そうしたもので判断しているのです。
知っている人なら、なおさらのこと判断材料がたくさんあって、「この人なら、あの人なら」が楽にできます。
だから、周りに恵まれない、と思うときがもしあるなら、これはひとつ、自分の中にある、もしかして自分で気づいていない意識を発見するチャンスです。
気づいたら、それがどこから来るのか、本当にそれが正しいのか(例:罪悪感や思い込み)、チェックできます。
そしてそのパターンを別な新しいパターンや癖で入れ替えるとしたら、まず何をするか、など次にやることもおのずと出てきます。
ココロの荷物を一気に消化!
自分リセット、休日の朝は大切なので、夏は休みを取りたい季節ですね。
気持ちよく休みを取らせてもらえない状況だとしたら、一度自分の中にどこかで休みをとらせないような気持ちがないか探ってみてそれをクリアするのが遠回りなようで近道かもしれません。
痛いところはつかれるなら、つかれるところをなくしていきましょう。