“ひとりであること”、それを決して不幸だとは言わない。
当人にしかわからない、そこにある(これから訪れる)幸せは、本人にしかわからないから。
人は、誰しも、いずれ一人になるのだという事実があるにせよ、“あなたはひとりだけれど、ひとりではない” のだということも、また、真実のひとつだと、そう、思っています。
amazarashiは、現代の人々が持ちやすい厭世観とその向き合い方を端的な言葉で歌うバンドですが、その「空っぽの空に潰される」という曲に、こういう歌詞があります。
https://www.youtube.com/watch?v=xkWr-kECEKg
「恒久的な欠落を 愛してこその幸福だ」
世の中が、自分のいる場所が、完璧ではなくとも、その中で生きていくしかありません。
そこには、辛く悲しいこともたくさんありますが、決して不幸ばかりとは言えないのも、事実ではないでしょうか?
完璧にできることは理想だけど、いつもそうできるとは限らないし、それを他人に求め過ぎてもても上手くはいかないから、適度に心に余裕が持てる状態をつくってみる。
サン・テグジュペリも、こう言っていました。
「人生には解決策などない。
あるのはただ、前進してゆく力だけだ。
その力を創造しなければならない。
そうすれば解決策などひとりでに生まれてくる。」
人と人の関係性の中で、必ずしもどちらかが悪くどちらかが正しいとは言えない状況ではないかと思います。
そんな状況において、人が何をどう感じているかということです。
完璧な解決策などないし、それを待っていたら、何も進まない。
多少のリスクと問題はあったとしても、立ち止まらないで、進みながら試行錯誤して、障害を乗り越えていく。
人間は主観で考えれば、物事を自分にとって都合よく捉えがちです。
だから、やれ運命がつまらないの、人生がつまらないのって言ってしまうのは、その考え方がつまらないんだって事に気づいていないだけなんだよ、ね。
今、置かれた環境ではなく、自分の考え方が、どう実感できるか?に影響していると認識して、自分の考え方を変えていかなければ、周りの環境は自分に都合よくは変わらないから^^;
仮に、自分にとって悲観的な想像をしてしまいがちな人も、その悲観的な想像が自分にとって何らか都合がよいからしているのだと私は、そう、思っています。
そう、主観は、常に、歪んでいる。
例えば、人は、自分の最も悪い習慣でさえ失うことを残念がる傾向があり、なぜなら、それこそが、その人の人格の本質的な部分であるからだと、オスカー・ワイルドも言っていました、ね。
気づいていないだけで、無意識の内に身についている習慣もあるから、時には、自分にどんな習慣があるのかを、客観的に振り返ってみて、少しずつでもいいから、良い方向に考えることができる習慣をつけていければと考えています。
考え方や行動を変えたいのなら、意識して習慣を変えていくしかないから。
例えば、とても悲しい気持ちになった人がいたとして、その人にそう思わせた相手は悪い人なのでしょうか?
あるいは、とても正しいことを言う人がいたとして、その正しさは本当に人を幸せにするものなのでしょうか?
人の選択の裏には、その人の主観的な正しさがあるものだと思います。
人の生き方を一番よく表すのは、言葉ではなく、その人の選択であって、そうであるのなら、私達の選択とは、つまるところ、私達の責任なんだと気づければ、プレッシャーはあるけれど、自らした選択とリスクを負うことは、後の大きな価値になります。
しかし、その選択は、別の人の視点からすれば間違っていると捉えることもできるものです。
なら、客観的な正しさとは何なのか?
そんなものは実は存在しておらず、誰しもそんな幻に囚われているだけなのではないか、などということを考えてしまうのです。
また、目に見え、数字化できるものだけを評価対象にするのは、客観的というより怠慢であるとも言えます。
「ねぇ、ママ」(秋田レディースコミックスDX)池辺葵(著)
「ねぇ、ママ」に収録されている物語には、間違っていると分類できそうな人たちが出てきます。
しかし、それらの人は単純に悪として断罪されているわけではありません。
この漫画には、自分の都合で子を捨てる母親の姿が描かれています。
正しいことが正しいわけでもなく、間違っていることが間違っているわけでもないのが世の中なんじゃないかと思います。
みんなが正しくても不幸は生まれうるし、間違いが残っているからといって幸福が訪れないわけではありません。
正しさと間違いの交錯する曖昧な一点を池辺葵の漫画はするりと通過していきます。
それは取りこぼされていることすら気づきにくいような場所です。
唯一無二の正しさというものは、それにそぐわない残りの全てを間違ったものにしてしまいます。
正しさは色んなものを傷つける可能性も高いんじゃないかと思います。
もちろん間違いだってそのまま他人を傷つけます。
誰しも幸福になりたいだろうに、その過程で別の誰かを不幸に落とし込むような言葉ばかりを選んでしまったりもします。
悪者を見つけて、全て消し去った先に、清浄で正常な素晴らしい未来があるのだろうか?と思います。
そこにあるのは、傷ついた人々の残骸だけなんじゃないだろうかと。
光が強すぎてもダメだし、闇が濃くてもダメな様に・・・・・・
人間は完璧ではないですし、責めようと思えば責められるところはきっと無数にあります。
その中で、そんなことがある上で、なんかいい感じにやっていくのが人生なわけじゃないですか。
完璧でないことを責められるのだとしたら、世の中の全ての人はきっと何かしら罪を抱えています。
あるいはそう思われないための嘘でもついていなければならないでしょう。
ならば完璧じゃない中で、なんとかおっかなびっくりいい感じに生きていきたいじゃないですか。
ときには、そんな状況を察して上げて、知らないフリをしてあげたり、そっと、あたたかなまなざしを、注いであげるみたいに、ね(^^)
自分が情報提供する立場なら、常に、自分の言葉の重みを忘れないようにしてください。
他人に損害を与える可能性があることを、している可能性があることを、忘れないようにしてください。
誰しも、どこか・・・・・・
JUJU 『かわいそうだよね (with HITSUJI)』Music Video
https://www.youtube.com/watch?v=9TUL2YgWSuA