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【LAWドキュメント72時間】発見の旅とは?
■今、世の中に足りないのは何色ですか?
新しい景色を探すことではなくて。
新しい目で見ること。
同じ景色でも、視点が変わると、そこにたくさんの発見がある。
例えば、森には、人のルールとは異なる、森のルールがあるはず。
人間のルールだけで生きていると、見えないことが多い。
■色に出る
つまり「顔に出る」。
いいことも悪いことも、人間、必ず顔に出る。
隠しておけるなんて思わずに。
どうせ知られるんだから。
自分の意志で知らせた方がいいんじゃないかと思う。
人は、口さえ開かねば、口さえ封じておけば、なんて考えるけど。
「顔は口ほどにモノを言う」
そういえば、平兼盛の短歌にもありましたね
「忍ぶれど 色に出(いで)にけり 我が恋は ものや思ふと 人の問ふまで」
「きれいだなぁ」
誰も聞いていないつぶやきも、いいものですね(^^)
■楽しむとは沈黙に聴きいることだ
文字と文章をどのように駆使すれば、いい文章が書けるのか?
自分の体験や思いをうまく表現することができるのか?
そのような文章術は、学校では、学ばなかったように思います。
人間は、基本的にものを知るのが好きであり、知ることは、非常に大切なことだと思います。
知識だけで、何かができるわけではありませんが、知識がなければ、何も極めることができません。
日本語の力とは、生きるための知識を蓄えてための手段であり、同時に、知識が蓄えられていくと、日本語は豊富になっていきます。
私達は、ものごとを言葉で考えているわけですから、言葉が豊富であれば、対象をより多角的にとらえることができ、より深く真実に迫ることができるのだと思います。
だけど、その豊富な言葉を得たとしても、それをどのように表現すればいいのか。
文章の基礎というべきものを、何も持ち合わせていないことには役に立たないんですよね(^^;
だって、絵を描こうとする人が、最初から油絵の筆を持つことはないだろうし。
ピアノを弾こうとする人が、最初にベートーヴェンのピアノ・コンチェルトを弾くのは無理なことです。
まず最初は、デッサンを練習し、運指(指使い)の練習を繰り返さなければならないはずです。
また、石膏の胸像を描きたいと思って、絵を描こうとする人はいないだろうし。
ドレミファソラシドを弾きたいと思って、ピアノをはじめる人もいないはずです。
だから、最初に、誰もが、基礎を、身につけなければならないのだと思います。
風景画を描くにしろ、静物画や人物画を描くにしろ。
また、いずれは、モーツァルトやチャイコフスキーを弾きたいと思っているにしろ。
それが必要なことを認識しないといけないよね。
ピカソもショパンも、そうしたはず。
なのに、ピカソやショパンよりもはるかに才能で劣る私達が、それをしないでいいわけがない(^^;
文章を書くことだけが、例外であるはずがないんですよね。
そのことに気づいたのであれば、まず、目の前で見た光景を、写真のように、TV中継のように、描写してみる。
目で見たままに、それらを、絵画で言うところのデッサンの様に、すべて文章に書いてみる。
すると、それまで、あまり意識しなかったことに気がつくはずです。
ひとつは、言葉とは、山ほど数多く存在するものである、ということです。
見たままの出来事を、正確に、感想や感情を抜きに書き表そうとすればするほど、どの言葉が最も的確なのかと思い悩みます。
そして、言葉の数の多さに、改めて驚いてしまいます。
そうした文章デッサンの練習をしようと思うと、対象物を、より細かく観察する必要があります。
例えば、誰もが見落としてしまいそうな何気ない仕種のほうに、その人の心理が表れていたりするものですよね。
まさに、真理は細部に宿っている、ということに気づかされます。
文章にかぎらず、絵や音楽もふくめて、
「表現」
とは、すべて、外面的なものなんでしょうね(^^)
目で見え、耳で聞こえ、手で触れ、鼻で嗅ぎ、口で味わうことのできるものでなければ、
「表現」
とはいえない。
また、
「素晴らしい表現」
とは、
「表現技術」
が優れているもののことであって、どんなに心の美しい人でも、技術がなければ、美しい絵は描けない。
美しい音楽は奏でられない。
もちろん、美しい文章を書くこともできない。
ところが、文章や文字、すなわち、言葉というものは、日常的に誰もが使っているものだから、誰もが簡単に使いこなせるもの、と考えてしまっているように思えます。
そこで、文章を書いたり、言葉で表現する場合、外面的な技術が等閑にされ、内面的な感情ばかりが優先されることになってしまう。
スポーツでも映画でも、また自分の体験でも、それを、文章や言葉で表す場合は、感想や感動が重視されます。
その結果、外面的な技術、つまり
「表現」
が疎かになるんじゃないのかなって気がします。
最近の子供たちに、スポーツや映画を見たあと感想を聞くと、
「面白かった」
「すごかった」
「最高だった」
といった言葉しか返ってこないことが多いそうです。
どこが、どのようだったので、こんなふうに面白かった、という具体的描写が欠けている。
それは、あまりにも、感性や心といった内面を重視しすぎた結果ともいえるのではないでしょうか?
文は人なり、という言葉があります。
それは、文章は、その人の人格を表す、という意味ではなく、文章を磨けば、人も磨かれる、という意味ではないかと。
わたしは考えています(^^)