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【感想/所感/所懐/所存文】「縦の旅行」と「横の旅行」
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■語句説明:感想/所感/所懐/所存文
ある物事について、思ったことや感じたこと。
■「横の旅行」を経て「縦の旅」を通して、ただ純粋に、驚くことを、沢山経験しよう!
<テキスト>
「モオツァルト・無常という事」(新潮文庫)小林秀雄(著)
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「わかりやすさの罪」武田砂鉄(著)
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「日本宗教のクセ」内田樹/釈徹宗(著)
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「宗教の習合・対立について、自分の経験上思うんですが、近いものほど違いを強調したがる、離れたものほど同じところを強調したがる、というところがあるような気がするんです。
たとえば、東本願寺と西本願寺って、お互いに違うところを強調しがちです。
大きい目で見たらおんなじやのに、やけに違いを強調したがる。
その一方で、浄土真宗とキリスト教の同じところを挙げたがる人って多いんですね。
これっておかしな習性だなあって前から思っていたんですが、人間ってそういうところがあるのかもしれないですね。」
■世界内存在
ハイデガー風に言えば、
「世界内存在」
みたいな話であって、その世界を見に行かないと、
「わからない(分からない/判らない/解らない)こと」
なんて、いっぱいある。
人間は、単に、世界の中に、
「物理的に存在する」
だけでなくて、常に、
「世界と相互作用」
し、そこに、
「意味を見出しながら生きている」
はず。
■人間は世界から切り離されたひとりの観察者
つまり、人間は、
「世界から切り離されたひとりの観察者」
ではなく、
「世界の一部としてしか存在できない」
ため、その中で行動し、それぞれの理解を形成しているはずである。
だからこそ、その
「理解を形成している土台」
にあるはずの
「風土」
も、一緒に見に行かないと、
「その存在だけを見て批判」
してみたところで、まったく意味がない、というか、いつも的はずれな見解になってしまうということなのではないだろうか。
■私たちに必要な態度とは?
故に、私たちに必要な態度とは、なるべく、
「横の旅」
に満足するのではなく、
「縦の旅」
を頻繁に繰り返して、経験値を上げることが必要ではないかと思う。
きっと、全然違うものと比較してみた方がいい。
たぶん、違いすぎて、同じところを見つけようとする力が、そこに勝手に働くはずだから。
そこに、
「普遍」
のようなものが存在す様な気がする。
例えば、全然違うジャンルの本を読みながら、せめて1冊分ぐらいは、まるまる相手の思考過程にしっかりと触れたあとに、
「〇〇〇の言っていることは、まったくもって理解できない」
という話を、しみじみと聞いてみることが、何かを批評する上で、必要な態度であると考える。
その点を認識した上で、人を理解するということは、どういうことか?
カズオ・イシグロ氏は、以前、
「(自分と近しい考え方のいろんな国の人たちを知ろうとする)横の旅行」
ではなく、
「(近くに住むけれど自分とは違う考え方を持った人たちを深く知ろうとする)縦の旅行」
が必要になっているのでは、と話していた。
■参考図書:「エリート過剰生産が国家を滅ぼす」ピーター・ターチン(著)濱野大道(訳)
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本書を読むと、
「分断」
は、
①悪意によってのみ生まれるのではなく、むしろ善意によっても生まれる。
②無知によって生まれるのではなく、むしろ知を過信しすぎることによって生まれる
ことがわかる。
■関連記事:【雑考】垂直思考と水平思考
例えば、私たちは、ともに戦った同志に対して、
「共通言語を持った仲間たち」
みたいな言い方をするが、その
「共通言語」
に胡坐をかいて、わかりあったつもりになっていただけかもしれない。(例:水平思考)
そして、その言語外の人たちと、ちゃんとコミュニケートしようとしなかったのは、私たち自身かもしれない。(例:垂直思考)
その思考のリスクとは、つまり、
「持てる側の人間」
が
「持たない側の人間」
を正しく導いていく。
そう考えていること自体が、すでに、その
「場所」
において、ある種の
「分断への一歩目」
を踏み出しているのではないだろうか。
■参考記事:カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ 事実より「何を感じるか」が大事だとどうなるか
「俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。
東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。
地域を超える「[横の旅行]」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「[縦の旅行]」が私たちには必要なのではないか、と話しています。
自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。」
■人は見たいものしか見ない?「確証バイアス」とは?
人は本来、自分の見たいものしか、見ようとしない。
しかし、AIは、観察したものごとを選り好みせずに学習していく。
偏見のないAIの瞳にうつる世界は、私には、とても新鮮に感じられる。
こんな目で、世界を、近くに住む知らない人たちを、もう一度、見てみたいなと思ってみたが・・・
でも一方で。
そんなAIであったとしても、世界の全部はやはり、見えない。
例え、AIであったとしても、自分に見えるものしか、見えない。
そう、(人もAIも)誰でも、自分の
「思い込み」
や
「偏った考え方」
に合った
「都合のよい情報」
のみを集める一方で、それ以外の情報を無意識のうちに捨ててしまう心のクセがある。
このような誰でも持っている心のクセを、
「確証バイアス」
という。
古代ローマの政治家カエサル(シーザー)の言葉に、
「人は見たい現実しか見ていない」
というものがある。
この言葉は、まさに、
「人は自らの見たいもの、信じたいものを信じる」
という
「確証バイアス」
のことを指摘している。
確証バイアスが発生する原因の一つは、
「自分を正当化するため」
である。
人は、
「自分の考えを否定する情報」
よりも、
「自分の考えを肯定してくれる情報」
を好む。
自分の考えや自尊心を守るために、確証バイアスの強い人ほど自分を肯定してくれる情報ばかりを集めたがりがちである。
確証バイアスによるこうした思い込みを防ぐためには、自分にも、
「確証バイアス」
があることを常に意識することが大切である。
■人の思考を完全にトレースすることは、できるのか?
そうならば、
「人の思考を完全にトレース」
することは、できるのか?
できないとしたら、どの部分ができないのか?
その答えに近づく視点が、古くて新しい「縦の旅行」と「横の旅行」の視点であり、自分の
「生」
は、
「自分一人」
だけのものではなくて、その
「思考」
や
「命」
は、
「分散して保存」
されているのだとしたら・・・
■幸福度に影響を与えるのは?
人と人とは、なかなか理解しあえない(はずであり)。
それでも、やっぱり、理解したいし、わかりあいたい(と誰しも願い)。
そのためには、地域を超える
「横の旅行」
ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る
「縦の旅行」
が私たちには必要なのではないか、と考えてみることであり。
その双方を、心にもって、生きていくことを、諦めない(でいるはずだ)。
自分の近くに住んでいる人でさえ。
私とは、まったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ、もっともっと知るべきなのだろうと、そう思う。
そんな、
「謙虚な気持ち」
が
「真ん中」
の方で立ち上がってくれば、
「幸福度に影響を与える」
のは、一例を上げれば、
「友達の数」
ではなく、
「友達の多様性」
なのだと、理解できるのではないだろうか。
■参考映画
映画「ルックバック」