カラフルモーニングで気合を入れる
轍を辿って轍を踏むと言う事。
人間にとって最高のモラルは、潔さということかもしれません。
この道徳美は、自分が人間であるかぎり、守らねばならぬ、ひとつの掟みたいなものかもしれません。
この場合、わが身の損得を目方にはかって行動をきめるようでは男が立たない。
今風に言えば、男の品格なんでしょうか?
ただ、当然、人間の本然の憐れみという惻隠の情というのがおこるべきであり、この情こそ仁の根本であると儒教では教えています。
廉潔をまもるか?
惻隠の情という人間倫理の原理にしたがうべきか?
その両原則が、互いに相容れぬ矛盾としてそそりたっているだけに、この場合の判断が容易にできぬから厄介です。
人間万事、いざ行動しようとすれば、この種の矛盾がむらがるように前後左右に取り囲んできます。
この世では、大は天下のことから、小は嫁姑の事にいたるまで、全てこの矛盾に満ちています。
その矛盾に、即決対処できる人間になるのが、己が学問の道だって胸を晴れればカッコイイんだけどなぁ(^^)
要は、即決対処できる人間には、自分自身の原則をつくりださねばならないってこと。
その原則さえあれば、原則に照らして矛盾の解決ができる筈だってことです。
原則をさがすことこそ。
それが、自分の学問の道だと考えて行動しているつもりです。
でも、まだまだ、はっきりと。
それが、みつかりません。
ただ、エドモン・ロスタンの戯曲シラノ・ド・ベルジュラックの最後において、シラノが死に際して放った言葉。
「それは、私の心意気!」
こう言える人生では、ありたいですね(^^)
「私の心意気」は、原文では、「mon panache」となっています。
「mon」は、「私の」です。
「panache」は、イタリア語の「pennacchio」という語が15世紀頃にフランス語に入ってできた語です。
これは、「小さな羽」を意味する後期ラテン語の「pinnaculum」が語源になっています。
帽子などにつける「羽飾り」という意味ですね。
戦士のヘルメットにつけられていたことから、「堂々とした態度」というような比喩的な意味でも使わてもいますね。
男性的な気品、戦士の誇らしい振る舞い、騎士道的な勇敢さ、めざましい勇気、英雄的な勇気などを意味します。
そう言えば、全てのフランス戯曲のなかで、「シラノ・ド・ベルジュラック」は、最も歌舞伎に近くて、第1幕などは、どうしても「助六」を思い出させてくれます。
助六の「panache(小さな羽)」は、あの紫色の鉢巻きといったところでしょうか?
見た目じゃない、心なんだ!と言っても。
助六は、見た目も男前なので神様は意地悪だぜ(^^;
閑話休題。
そう、生きることは選択であり、選択には常に迷いがつきまとうから・・・・・・
一方を選べば、他方は捨てざるを得ないのも事実です。
あるいは、一方を捨てるからこそ他方が生きる。
選択に際して、規準となる原則を身につけることができれば、行動に一貫性を持たせることができるようになるものの、原則を身につけることそのものも行動であり、原則を身につけることと原則に従うこととは切り離すことができません。
そうであれば、行動と原則の関係は、雨上がりの轍に似ています。
ぬかるんだ道を繰り返し行き来するうちに形成されるわだちは、自分を含めた後続の足を引き付けます。
つまりわだちに足を取られやすくなる。
だからこそ、同じ轍を踏むってことに注意を配らないといけないってことです。
自分が踏むべき轍を踏めるようになることが生きる目的なんでしょうね。
例えば、毎日の忙しさにかまけて、要るもの、要らないものと一緒に、住んでいる。
とりあえず・・・・・・で置いていたものも、そろそろ見直してみては、どうだろうか?
クローゼットの中に入っている洋服やカバン、本棚に所狭しと詰め込まれている本や雑誌、何人家族?と思うほど、食器はキッチンに溢れ、旅行や頂き物の思い出の品は、飾りきれていない。
もっとシンプルに、もっと有意義に、生きていきたいものです。
全部を片付けようと思えば、膨大な時間と労力が頭をよぎり、ヤル気が起きないだろうけど、自分のお気に入りの1コーナーだけでも、これから要るものと、要らないものに分けてみてはいかがでしょうか?
物が溢れすぎている中で生活していると、心も落ち着かず、ゆったり、のんびりとできませんから(^^)
物を片付けるということは、心を片付けるということにつながっているのかなって気がします。
片付けて、要らないものは捨てるという行動は、やり始めるまで大変だろうけど、やり終えると、スッキリしていくだろうと思います。
少しずつ処分し、スッキリシンプルに生きていこう!
さぁ、今日も一日、ガンバレ自分!(^^)