大切な人との絆
「人生は全て次の二つから成り立っている。したいけど、できない。できるけど、したくない。」とは、ゲーテの言葉です。
そうなんですよね、前者には、いい訳?
後者には、正当な理由が???
人は、どんなときも言葉を探しながら、生きているのだと思います。
幸せなときも、ふしあわせなときも。
伝えたいときも、伝わらないときも。
それから伝わらない人にも、伝えられない人にも。
だから、言葉は大切で、探しあてた言葉は、心を支えてくれるものになるのかもしれません。
また、人の運命はいろんな物事の出会いで決まる事が多いのかもしれません。
成功するか、失敗するかは、その出会いをどれだけ大事に出来るか。
例えば、出会いも流れ星のようなもので、目の前に現れた人と話せる時間は本当に短いんですよね。
その間にどれだけ相手のことを知り、さらには自分のことを知ってもらえるかで決まってきます。
とはいえ、自分ばかりが話しまくってしまうと、相手のことがわからないままになるので注意が必要ですが・・・・・・
ただ、当たり前なことを言うと、人との出会いは流れ星と違い、双方向です。
そこで、聞き役に徹してみるのも大事なことですね。
そうすることで、相手からより多くを引き出し、自分が相手のためにできそうなことを見つけやすくなります。
自分の手持ちの「カード」のうち相手が興味を持つ、あるいは欲していることを選んで話すことになるからです。
でも、みんながこれをやり始めて、「お先にどうぞ」「いえいえ、ご遠慮なく。私はアトでいいです。」のような膠着状態が生まれたら困りますよね^^;
ただ、ケイタイやインターネットで注意しなければならないのは、不特定多数の人と簡単に人間関係を構築することのできるヴァーチャルな世界とは、逆に言えば、テレビの電源を切るかのように、簡単に関係性をも断ち切ることができるという側面を持っていると思います。
出会うことも、友情を深めることも、互いにコミュニケーションを取ることも簡単なら、それを断ち切ることも簡単なのです。
ありとあらゆる情報が簡単に手に入る便利な社会とは、裏を返せば、情報過多の社会で、現代の多くは、情報やコミュニケーションに食傷気味になっている、と思うのです。
しかも、コミュニケーション自体が、実態の薄い、砂上の楼閣のような存在、そう感じられてしまうことがあるのも事実です。
情報過多、さまざまなカタチのコミュニケーションが数多く存在するからこそ、他人の幸せが気になって仕方ないという人も増えているのかもしれません。
隣の芝生ならぬ、コンピュータのディスプレイの向こう側にいる人に思いを馳せながら、現実から逃避したいという気持ちばかりが鬱積していく、そんな閉塞感が漂っているのが、今の情報化社会という気がします。
だけど、人間は因縁によって生を受け、因縁によって生かされ、磨かれ、因縁によってこの世を去ります。
これは、ある意味、絶対の真理だと感じます。
自分との出会いも因縁なら、自分と人との出会いも因縁、仕事も因縁と、受けとめられるかどうかで、人はまったく相違する生活をおくることになります。
様様な出会いをいつも因縁という真理で受けとめられたら、私たちの日々の生活もさぞかし、ほのぼのとしたものになるだろうと感じます。
ともすると、私たちは自分の損得や好き嫌いの感情でのみ出会いを受け止めがちです。
それに対して、あらゆる出会いを因縁と感応する心こそ、本当の知恵ではないでしょうか?
本当の知恵は自分に厳しく、ふれ合うものには暖かいんじゃないかなぁ~って、思いますけど、みなさんは、どう思われますか?
そうそう、人間には、色欲・財欲・名誉欲・睡眠欲・食欲の5欲があると仏教では教えています。
人間には欠くことのできない重要な欲がもうひとつあり、それは、すなわち好ましい人間関係をつくりたい、維持したいという欲です。
誰でも人間関係をよくしたいと考えているはずだけど、皮肉なことに神経をすり減らし、心労を重ねるのも人間関係です。
信頼できる人を求めていろいろ試みるのですが、誠意を尽くしても報いられなかったり、逆に思いもよらない仕打ちをうけることもあります。
だから、初めから期待せず、一線を画して人とつき合ったり、人との交際は自分は不向きだとあきらめたくなることも多いんじゃないかと思います。
そこで『徒然草』第十二段の吉田兼好の言葉を紹介します。
「新訂 徒然草 (新訂)」(岩波文庫)吉田兼好【著】西尾実/安良岡康作【校注】
「心をひとしくする人と、しんみり話し合って、興味があることであれ、この世のはかなさについて、心おきなく語って心を慰めるなどということがあれば、このうえなくうれしいことであろう。しかし、現実にそんな人があるはずもなく、相手の話とちぐはぐにならぬように気をつかいつつ対座することになる。そんな時には、ひとりでいるような寂しさにおそわれるだろう。」
この段は、兼好が心の友への飢餓感を告白したものだと言われています。
どの時代であっても、心の通い合う人間を希求するものです。
誰にでもある、人に好かれたいと思う気持ち。
格好つけて生きようと思わないことですね。
そして、どれだけ悲しくてもどれだけ辛くても、極端な例だけど、アフリカの難民の子供達や、世界で飢えに苦しんでいる人達など、とにかく確実に自分よりも辛くて悲しい状況にいる人達が何千万人と存在する事を思い出して下さい。
そうすれば普通に暮らせて人間関係が築ける状況がどれほど幸福なことか分かるでしょう。
また、よろこびや哀しみは、ときどき涙に変わるけれど。
まっすぐな感情は心のままで、だから、涙の色はうつくしいのだと思います。
けれど、怒りの感情は涙にしないほうがいいんですよねぇ、できれば・・・・・・・
そこに、うつくしさは見つからないから。
大切なのは、怒りのひとつ前にある、自分の心を見つめることです。
愛しているから、裏切られるとくやしいし、大切に思うのに、気持ちが伝わらなくて淋しいってことは、誰も経験したことあると思います。
では、なぜ繰り返してしまうのか?
そこには、どうしても怒りや妬みがあるはず。
でも、怒りの前にあるのは、いつだって、大事な人を、大切ものを、真摯に想う気持ちですよね。
そんな気持ちを先にもってきて、そうして流した涙は、心をきれいにしてくれると思いませんか?
涙のあとの心の色は、きっと違うものになるはず。
Yesterday is history.
Tomorrow is mystery.
Today is a gift.
普段は忘れがちだけど、今日もしっかり結んで育もう!
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