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【読書メモ】「のたれ死にでもよいではないか」(新典社新書)志村有弘(著)

[ 内容 ]
知られざる作家たちの生と死―大泉黒石・森清秋・永見徳太郎・種田山頭火・藤澤清造・松原敏夫―評価されないまま、世間に埋もれ死んでいった六人の文人たちがのこしたことば、ドラマチックな人生を、その強烈な人間性・作品に魅せられた著者が鮮やかに描き出す。

[ 目次 ]
志望なんぞあるものかね―大泉黒石
大切な母をどこへ連れていった―森清秋
長崎銅座町の殿様―永見徳太郎
ころり往生はわが願い―種田山頭火
のたれ死にでもよいではないか―藤澤清造
一度くらいウソをつかせろよ―松原敏夫

[ 発見(気づき) ]
サン=サーンス:交響詩「死の舞踏」

「俺の自叙伝」(岩波文庫)大泉黒石(著)

「詩集 鳥のゐる磧」熊本正/森清秋(合著)

「長崎偉人伝 永見徳太郎」新名規明(著)

「山頭火随筆集」(講談社文芸文庫)種田山頭火(著)

「根津権現前より 藤澤清造随筆集」(講談社文芸文庫)藤澤清造(著)西村賢太(編)

「ゆがいなブザのパリヤー」松原敏夫(著)

フィンジ: 花輪をささげよう Op.18:来たれ、来たれ、死よ


[ 問題提起 ]
著作タイトルの

「のたれ死にでもよいではないか」

は、藤澤清造を扱った章の題をそのまま生かしたものだが、藤澤の言葉ではなく、

「のたれ死に」

という彼の死に様に対する著者の感慨を表わしている。

藤澤清造は、43歳で

「のたれ死に」

した私小説作家である。

精神に異常をきたし行方不明になり、芝公園で凍死しているところを発見された。

発見時は誰だかわからず、埋葬後に藤澤であることが判明したという。

本書は、藤澤のほかに、大泉黒石、森清秋、永見徳太郎、種田山頭火、松原敏夫という6人の作家を取り上げたものだが、山頭火以外はいずれも忘れ去られた、あるいはそもそも知られていない作家といってよく、みな貧窮にあえぎ、ろくでもない死に方をしている。

著者は、

「それでもよいではないか」

というわけだ。

[ 教訓 ]
忘れ去られた作家といっても(山頭火除く)、文学史的に見た場合の重要度にはやや差がある。

森清秋、永見徳太郎は長崎の郷土詩人と作家で、著者の思い入れから取り上げられている気味が強い。

山頭火はよく知られている存在なのに掘り下げが浅い。

本書で見るべきは、大泉黒石、藤澤清造、松原敏夫の三者ということになるだろうか。

冒頭で触れたので、藤澤から見ていくことにしよう。

この本、以前、藤澤清造は、ちょっと有名になっていた。

芥川賞候補にもなった私小説作家・西村賢太が傾倒ぶりを書いたためだ。

石川県で生まれた藤澤は18歳で上京後、安野助多郎という友人をとおして、徳田秋声、秋声の代作をよくしていた三島霜川と知己を得、雑誌『演芸画報』の仕事をするようになった。

しかし、人に頭を下げるのが嫌いで依怙地という性格ゆえ社長と衝突して退社。

その直後、31歳のときに処女作『根津権現裏』(大正11年)を書く。

友人・安野を登場させた私小説である。

著者は、榊山潤『馬込文士村』(東都書房、1970年)という文壇回想録にある

「たぶん多くの読者は、この小説を半分も読まずに投げ出すだろう。

惨苦と不潔ばかりのこんな人生に、我慢してお附合いする義理はないからである」

という評を引き、そのとおりの小説だといっている。

私も読みかけたことがあるのだが、まったくそのとおりの小説である。

『石川近代文学全集5』(石川近代文学館)に同作の抄録と評伝・解説が載っていて、そこにも

「その内容のじめじめした暗さや退屈さからして、文壇の評価も余り芳しくはなかった」

と書かれている。

しかし、田山花袋、島崎藤村など自然主義の作家は、藤澤のこの作を高く買っていたという。

同作が発表された大正11年(1922)は自然主義の嵐が過ぎ去ってしばらくあとになる。

もう十数年早かったら、藤澤清造は文学史にきっちり登録されていたかもしれない。

「半分も読まずに投げ出すだろう」

といった『馬込文士村』には続きがあって、

「だが、藤沢はそういう人生、自分でもやり切れない人生に焦点をあて、それを再現しようとしたのだ。

読者が途中で投げ出すのは、藤沢の再現様式が的確であったからで、これは成功といえる。

が、そういう成功は飯の種にはならない。

(中略)

残念ながら藤沢は、歓迎されない才能を持った、不運な作家の一人であった」

と藤澤の不幸な才能を称揚している。

そういう才能をあえて生きなおしてみせている西村賢太がそこそこ売れっ子であるという事実は、歴史(文学史)というものの不合理さをちょっと感じさせる。

[ 結論 ]
松原敏夫は、本書のなかでももっとも知られざる作家だろう。

〈文学の世界に身を置いていた人ならともかく、おそらく文学と無縁の人は、誰も知らないのではあるまいか〉

と著者は書いているけれど、文学関係者にもほとんど知られていないのではないか。

なにしろ松原の執筆の場は『ふらて』という個人誌だったのだから。

そこに発表した短編小説「話さなかった話」が話題の中心なのだが、たしかに興味深く、記録されてもいいエピソードである。

「話さなかった話」はこんなストーリーだ。

「子供のころ「私」は父に連れられ城崎温泉に行った。

温泉で、父が知らない人から話しかけられていたので、誰かと訊くと「××という東京の人じゃ」と答えた。

「私」には「××」が「曽我」と聞こえた。

数日後、使いに町に出ると、川に人だかりができている。

見ると、川に、串に横刺しにされたネズミがいて、人々が石を投げていた。

「私」も面白半分に石を投げたりしていたが、ふと横に曽我さんがいることに気づいた。

曽我さんはネズミを凝視していた。

歳月が経ち、志賀直哉の『城の崎にて』にある串刺しネズミの場面を読んだ「私」は、「曽我さん」とは「志賀さん」だったのではないかと思いいたる。

著者はいたく感動し、『城の崎にて』の描写が事実であることを示す重要な作品で、志賀文学研究に一石を投じるものだと褒めた。」

藤枝静夫や阿部昭といった作家も文芸誌などで「興味ある挿話」と紹介したのだが、この「話さなかった話」、じつはまったくのフィクションだったのである。

これに怒った私小説作家・尾崎一雄らが批判を出す。

こういう作り話は

「文学史的に人に嘘を教えることになる」

からいかんというわけだ。

それに対し、小説をただちに事実と思いこむほうがどうかしている、松原の才能を褒めるべきだろうといった反論が新聞の匿名コラムから出て、ちょっとした論争になったそうだ。

〈結局、是か非かは、個人個人の考えに委ねるしかないのだろうが、私は、「話さなかった話」を書いたことで、一時期、喧噪の中に身を置かねばならなかった、松原敏夫の晩年の寂しげな風貌をときおり思い出している〉

「話さなかった話」は松原初のフィクションだった。

そのことも騒動に手を貸したのだろうが、1981年前後という時代にこんな素朴な論争があったということのほうが、現在の読者から見るとよほど「興味深い挿話」だ。

松原のこの章のタイトルは

「一度くらいウソをつかせろよ」

となっている。

大泉黒石は、作家というより性格俳優・大泉滉の父といったほうが今日とおりがいいだろう(大泉滉も忘却されつつある気もするが)。

ロシア皇族の侍従として来日した法学博士アレキサンドル・ヤホーヴィッチが、日本人女性・大泉恵子とのあいだにもうけた子が黒石で、明治26年(1893)に長崎で生まれた。

恵子は黒石を生んで一週間後に死んでしまう。

父ヤホーヴィッチは黒石をほっぽり出してロシアに帰国、祖母に引き取られる。

小学校3年生のとき、漢口で領事をしていた父を頼っていくが、父も死に、黒石は孤児となった。

その後、ロシア、パリ、スイス、イタリアの学校を転々とし長崎に戻って中学を卒業する。

そしてふたたびロシアの学校に入った、と思ったらまた帰国して、京都三校に入学するが退学、大正6年(1917)、東京に出て一校にも在学したがこちらも退学し、さまざまな仕事をしながら小説家を志すようになる。

このとき26、7歳。

なんともすさまじい人生である。

黒石のこの章の題は

「志望なんぞあるものかね」

という彼の文章から取られたもので、こう続く──「俺は死ぬまで志望も目的もないんだよ」。

徹底した虚無主義。

小説家を「志した」といっても、カネに困って原稿を売ることを思いついたというのが実相にちかい。

まだ何も書いていないのに春陽堂の『新雑誌』や『早稲田文学』に手ぶらで持ち込みをかけ断られるが(当たり前である)、面白がった滝田樗陰が自叙伝を書けといって大正8年『中央公論』に載せた。

樗陰が人力車で原稿依頼に来ると文壇に認められた証し、といわれたころの話だ。

タイトルは「俺の自叙伝」。

「アレキサンドル・ワホウィッチは、俺の親爺だ。

親爺は露西亜人だが、俺は国際的な居候だ」

という書き出しの、奔放自在の自伝である。

「俺の自叙伝」で黒石は一躍脚光を浴び、大正11年に発表した『老子』『老子とその子』(どちらも小説である)は80刷とも100刷ともいわれるベストセラーとなった。

しかし、次第に文壇から締め出されていく。

あとで解説するが、黒石再評価を担った英文学者の由良君美は

「裏舞台での黒石引きおろし策には、一編の活劇の趣さえあった」

と書いている。

黒石を

「いかがわしい」

と見る差別感情、純文学の領域へ足を踏み入れつつあった黒石を大衆小説として斥けたい勢力などがあったようだ。

雑誌ジャーナリズムの著しい拡大を背景に、黒石は雑多な雑誌にしぶとく書きつづけたが、それも第二次世界大戦後には途絶えた。

戦時中の昭和18年に本名の大泉清で出した『草の味』という本が最後の作品である。

確認できなかったが、食べられる草を説明した実用書だという。

黒石の食い詰めぶりがうかがわれる。

著者の興味は全般に、人脈というか、人と人とのつながりにあるようで、ここでは滉をはじめとする黒石の4人の子に向いている。

しかし、島尾敏雄の黒石への思い入れが書かれている一方で、由良君美が1988年に『大泉黒石全集』(緑書房)を編んだことにはなぜか触れていない。

博覧強記で知られる由良と、デスパレートな黒石というのも妙な取り合わせだ。

四方田犬彦が由良との師弟関係をつづった『先生とわたし』に、そのあたりの事情が書かれている。

「由良君美は1970年代から、日本に希有なコスモポリタン作家としての黒石の復権を提唱してきた。

この天才肌の作家が大正末年に一世を風靡し、その後文壇を追放され、零落のかぎりを尽くしたという事実に深い共感を抱いていた」

[ コメント ]
本書の著者・志村有弘も

〈人生は双六ではありません。

決して上がりはないのです。

のたれ死にをしても、ころり往生をしても、それはそれで一つの立派な人生なのです〉

とこれらの作家たちに深い共感を示してみせる。

ところで志村は、伝承文学や近代文学の研究者で、プロフィールには大学教授をはじめ肩書きがいっぱい並ぶ、世間的に立派な人物である。

由良も晩年は酒乱になり不遇をかこったとはいえ東大教授だった。

道端でくたばったような作家に入れ込み研究をする大学の偉いセンセイ、といった構図を見るにつけ複雑な気分になるのだが、全集に由良が付した解題などはたしかに見事なもので、その見事さがまた複雑な気分にさせる。

そういうことを気にしない向きには、本書は、若干緩いが無名作家の生き様、死に様を概観するのに手軽な一冊である。

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