【人生の特別な一瞬】目先の快楽に溺れるのが人間の性であるならば
波乱の時代だからこそ・・・
今の大切さに、気が付くのだろうか?
それとも、いつか、必ず死を迎える人間。
それは、根源的な欲求なのだろうか?
そもそも、目先の快楽の中に果てる。
それが、人間の性なのではないか?
自らが、存在しえない、未来の地球環境に、配慮するため・・・
日々の生活を、犠牲することが、私たちに、本当に、できるのだろうか?
流れゆく時の中に、特別な一瞬を、つかめるかどうか。
「人生の特別な一瞬」長田弘(著)
「人生の特別な一瞬というのは、本当は、ごくありふれた、なにげない、あるときの、ある一瞬の光景にすぎないだろう。
そのときはすこしも気づかない。
けれども、あるとき、ふっと、あのときがそうだったのだということに気づいて、思わずふりむく。
ほとんど、なにげなく、さりげなく、あたりまえのように、そうと意識されないままに過ぎていったのに、ある一瞬の光景が、そこだけ切りぬかれたかのように、ずっと後になってから、人生の特別な一瞬として、ありありとした記憶となってもどってくる。
特別なものは何もない。
だからこそ、特別なのだという逆説に、わたしたちの日々のかたちはささえられていると思う。
人生は完成でなく、断片からなる。
「人生の特別な一瞬」に書きとどめたかったのは、断片の向こうにある明るさというか、広がりだった。」(あとがき)
分からない世界だからこそ、人間の知性や決断に意味が生まれる。
「たまらなく美術館へゆきたくなるときがある。
そして、美術館へゆき、見たかった絵や彫刻の前に立つと、ふだんはすっかり忘れている小さな真実に気づく。
わたしたちの時間というのは、本来は、こんなにもゆっくりとして、すこしも気忙しいものでなく、どこか慕わしい、穏やかなものだったのだ、ということに。」(美術館へゆく)
生きる意味が分からない世界から分かることを増やすこと。
「夕陽はマジシャンだ。
黙って、眺めているだけで、いつしか気もちの奥まで、あかあかと明るくされてゆく。
やがて、ありふれた一日が、すばらしい一日に変わる。
ありふれた出来事が、すばらしい記憶に変わるのだ。」(夕陽を見にゆく )
なんとか、分かりそうだけど・・・
分からないものに出会い。
時間を忘れて没頭して。
なおかつ分からない、という時間の使い方は楽しい。
「すべてがおどろくほど変わってゆく世にあって、何事もないかのように、そこにまっすぐに立っている大きな欅の木を目にすると、信じられるものがここにある、と思える。
大きな木にひとが惹きつけられるのは、大きな木はひとの心のなかに、気づかぬうちに、その木と共に在るという確かな思いをそだてるためだろう。
心の定点としての木をどこかにもっているかどうかで、人生の景色の見え方は、あざやかさがちがってくる。」(欅の木)
主体や主語を、相手のほうにおいて、自分の立ち位置を、一歩引く。
禅や茶道など持ち出さなくても。
それは、日本語の「受け身」表現からも分かる。
つまり、主客の関係のあいまいさや、入れ替わりが、日本の伝統です。
主客ともに
「一期一会」
を
心がける
何かを失って
初めて
心に芽ばえる
哀しさや
寂しさ
そして
恋しさ
明日も
今日と同じ時が
流れるという
錯覚の中では
目の前の出会いに
一生に一度の輝きを
見出すことは
できないのかもしれない
浮かんでは沈む
一期一会
の
心がけのはかなさを
嘆くのではなく
孤独に
向き合ったからこそ
人一倍
心が通じ合う相手(人や物)が
欲しいと願う
おもいを
無理に
埋めようと
しないことだ
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