それが間違いだと誰が決める?
人は、レベルの差こそあれ、大体は自分が正しい、と考えています。
また、自分が正しくありたい思いもあります。
自分を正しくするために、というか、自分が正しいなら周りが間違っている、と思うことさえあるかもしれません。
これが、クセモノ。
どれが正しくて、間違っていて、というシロクロの判断がつきにくいときが多いから。
法律や道徳などで、これはよし、これは悪い、と区別して、確かに間違っているものって存在します。
あきらかに誰が見てもおかしいというものもあるでしょう。
でも、モラルや常識などは、個人の経験や育った環境、国の文化などによって変わります。
また、一見間違っていると思うことでも正当化されてしまうこともあります。
たとえば、多くの人が戦争は悪だと思っても、それが正義だと思う人もいるし、実際、世界に戦争のないときはありません。
人殺しは悪でも、戦争でたくさん人を殺したらお手柄になる。
タバコだって身体に良くないのに吸っている人はたくさん。
こうした矛盾って、たくさんあるではありませんか。
何が正しい・間違っている、の判断って、いったい誰がどう決めるのでしょう。
少なくとも、自分にとって何が正しいか正しくないかの判断は、自分でしていくほかありません。
たとえば、自分の考え方、見方、姿勢。
それから、仕事や恋愛での選択。
人生での選択。
どういったものが、自分にとって正しいものなのか。
できると思うのが正しいのか、できないと思うのが正しいのか。
または、罪悪感を感じることが正しいのか、それともそれは自分にとって間違っているのか。
仕事での判断や選択が、正しいのか、それともそうではないのか。
正解は果たしてあるのかどうか、と迷うことも実際にはありますよね。
いずれにしても、私たちがどう思うか。
自分で正しいと思うなら、その時点では正しいことになるのです。
それにしたがって、いつかどこかでこれは間違ったかなと思うなら、その時点で引き返す、改める、ということにしていけば良い、と思ってみる。
つまり、できると思えばそれは正しいし、私にはできない、と思えば、それも正しくなるので、必要なときには、何が何でもできる、と思い込むことも実際には効果があります。
できると思っていると、できるようになるから。
それから、人は自分が正しいと思うとき、人にも伝えたくなります。
人の判断が自分と違うときそれは間違っていると錯覚することもあるかもしれません。
でも、違うのと間違っているのとは、まったく意味が違います。
何が自分にとって正しいのか、結局は本人にしか判断できないことを、常に頭においておきましょう。
それは、自分にとっても周りの人にとっても同じです。
もちろん、意見やアドバイスを上げたりもらったりもよし。
ときにそれも必要です。
ただ、最終的に自分にとって何が正しいのか判断できるのは自分だし、周りの人にとって正しいのか判断できるのは周りの人。
自分が正しい、周りも正しい、そんなときもあるのです。