【書きたいテーマを探してみよう(読書編)】エンタメ小説が好き
「みずうみ」(新潮文庫)川端康成(著)
■発見(気づき)
川端康成。
学校の教科書に作品が載るノーベル賞作家。
そんな印象をお持ちの方が多いのではないかと思われます。
なんとなく高貴で美しく。
そして、ピュアな作品を漠然とイメージするもしれません。
しかし、その実、男女の関係にしても、
・出会い
・愛し合い
・お互いに求め合う
というふうな、一般的な関係にはない。
まったく違った世界観を、描いていましたね。
ご存じの方も多いと思うのですが、どういうことかというと。
自分にとって、美しい者を、一方的に追いかけるという
「非対称的な関係性」
を描くことが多かった作家でもありました。
■問題提起
ところが、どんな
「変態的」
でいびつな
「恋愛像」
であっても、川端という天才的な文豪の手にかかると・・・
限りなく美しく描かれてしまうのですから、確かに、さすがノーベル賞作家である所以で、すごいところだと思います。
では、どんな作品が該当するのかと言うと、長編小説「みずうみ」では、現代でいう
「ストーカー」
を扱った異色の変態性を描いています。
このテーマを扱った小説としては、さっと思いついた内容から以下があります。
大石圭『アンダー・ユア・ベッド』
森見登美彦『太陽の塔』
雫井脩介『火の粉』
五十嵐貴久『リカ』
山本文緒『恋愛中毒』
■教訓
本書の主人公の桃井銀平は、高等学校の教師でしたが、教え子との恋愛事件を起こして教職を追われます。
美女と野獣的な雰囲気を醸し出すためか、銀平は、足の指が曲がっており、その醜さが強調されていましたね。
美しい少女を見ると憑かれたように、あとをつけるという異常な行動を繰り返します。
気に入った美しい女性を見かけると、あとを追ってしまう奇行癖のある銀平。
彼が、ある少女の美しい黒目のなかの
「みずうみ」
を裸で泳ぎたいと願う物語が本書です。
どうでしょう。
見方によっては、なかなか変態的な観点ですよね。
■参考図書
さて、ここで、ここ1年くらいで発表されたエンタメ小説の中で、
「面白い」
をキーワードにして、そう感じられるエンタメ小説は、以下の通り、選書してみました( ^^) _旦~~
みうらじゅん『通常は死ぬ前に処分したいと思うであろう100のモノ』
伊良刹那『海を覗く』
井上荒野『錠剤F』 (2024年1月22日)
井上荒野『猛獣ども』
一色さゆり『音のない理髪店』
一穂ミチ『恋とか愛とかやさしさなら』
恩田陸『spring』
河﨑秋子『愚か者の石』に
河﨑秋子『森田繁子と腹八分』
垣谷美雨『墓じまいラプソディ』
角田光代『方舟を燃やす』
岸本佐知子『わからない』
金井真紀『テヘランのすてきな女』
金子玲介『死んだ山田と教室』
金子玲介『死んだ木村を上演』
群像編集部 編『休むヒント。』
古賀及子『気づいたこと、気づかないままのこと』
午鳥志季他『夜明けのカルテ』
江國香織『川のある街』
降田天『少女マクベス』
高瀬隼子『新しい恋愛』
佐原ひかり『鳥と港』
佐藤正午『冬に子供が生まれる』
桜木紫乃『谷から来た女』
三浦しをん『ゆびさきに魔法』
篠田節子『四つの白昼夢』
柴崎友香『あらゆることは今起こる』
斜線堂有紀『星が人を愛すことなかれ』
西村亨『自分以外全員他人』
村雲菜月『コレクターズ・ハイ』
村山由佳『記憶の歳時記』
大前粟生『チワワ・シンドローム』
朝井リョウ『生殖記』
朝倉かすみ『よむよむかたる』
津村記久子短編集『うそコンシェルジュ』
辻村深月『あなたの言葉を』
田中兆子『今日の花を摘む』
藤野千夜『また団地のふたり』
藤野千夜『時穴みみか』
奈倉有里『文化の脱走兵』
尾崎世界観『転の声』
平野啓一郎『富士山』
麻布競馬場『令和元年の人生ゲーム』
木内昇『惣十郎浮世始末』
柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』
鈴木おさむ『もう明日が待っている』
髙橋秀実『ことばの番人』
■結論
美しい女性を見つけては、とにかくつけ回すのですから、その銀平の行動は、まさにストーカーそのもの。
その行為を、川端は、このように描写していましたね。
「この時も、柴犬をひいた少女が一人、坂の下からあがって来るだけだった。
いや、もう一人、桃井銀平がその少女の後をつけていた。
しかし銀平は少女に没入して自己を喪失していたから、一人と数えられるかは疑問である」(『みずうみ』(新潮文庫)より)
この作品が発表された昭和29年(1954)年当時、
「ストーカー」
という言葉はありませんでしたが、その概念は、現代のストーカー行為と同じです。
■コメント
そんな作品にもかかわらず、本書は、川端の圧倒的な筆力によって描かれる世界観(例えば、終盤主人公が降っていない雨の音を聴くシーン)によって、
「ああっ、大きい蛍。」
銀平は空の星を見て蛍と思って、少しもあやしまなかった。
むしろ、感動をこめて、「大きい蛍だ。」と、もう一度口に出した。
並木のいちょうに雨の音が聞こえはじめた。
非常に大粒で非常にまばらで、半ば水になった雹か、軒の雨だれのような雨の音である。
平地には降るはずのない雨で、どこかの高原でかつ葉樹木にキャンプした夜にでも聞く雨である。
いくら高原でも夜露の滴る音にしては多すぎる。
しかし、銀平は高山にのぼったおぼえもないし、高原にキャンプしたおぼえもないし、どこから来る幻聴かといえば、勿論、母の里のみずうみの岸辺であろう。
「あの村は高地というほどじゃない。こんな雨の音は、今がはじめてだ」
「いや、たしかにいつか聞いたような雨だ。深い林の――やみぎわの雨かもしれない。空から落ちる雨よりも木の葉にたまったしずくのおちる方が多い時の音だ。」
「やよいちゃん、この雨は濡れると冷たいよ。」
「うん、町枝さんという少女の恋人は、高原のキャンプに行って、こんな雨に打たれて、病気になったのかもしれないぞ。その水野という学生の怨みで、このいちょう並木にお化け雨の音が聞こえる。」などと、銀平は自問自答したが、降ってない雨の音を聞くのだから自由である。
本来は、あってはならない共感すら呼び起こすのですから、凄いなと思うのですが・・・
<参考記事>
この一作だけの感動 「みずうみ」という魔界
前述の「みにくい足」の描写に関して、こんな研究も発表されているので、参考までに一読頂くと、この作品の別の視点が見えてきます。
<参考資料>