そこはかとない不安
https://twitter.com/makoto_akinaga/status/1348563266205728773?s=19
今朝見たこのツイートに強い違和感を感じた。
主張の意図は理解する。
文章力というのは、言ってみれば俳優の演技力のようなもので、伝えんとする内容と受け手を繋ぐインターフェイスの評価軸だと仮定できる。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という映像作品の素晴らしさを語る上でほぼ必ず触れられる「作画の緻密さ、美しさ」などは、まさしくこれである。同様に「文章力」は、小説というアウトプットにおける唯一無二と言ってもいい表現手段であり、その優劣は作品それ自体を語る上での重要な要素となる。従って、それを評価軸に値しないという言説に対し真っ向から反対する上記ツイートの主張は異論を差し挟む余地がない。私の見ている前で「いいね」のカウントが次々と増えていくのも、ある意味当然と言えよう。
しかしその上で拭い切れない違和感は、一体どこからくるのか。
それはTwitterというプラットフォームの特性である文字数制限に由来している。文章力という表現ストラテジーを駆使する上での大きな足枷となるこの制限は、主張のスリム化が避けられない。言いたいことの全てを詳らかに記すことは事実上不可能である。
ただでさえ言語化という変換を行っているのに、そこに更なる量的制限が加わるため、展開する主張はどうしてもヘッドライン化せざるを得ない。そして本来必要であるはずの枝葉を削ぎ落とされたテキストは、いやが上にも先鋭化してしまう。
一番伝えたい部分をフォーカスするのは発信側の意図を伝えるひとつの有効策ではある。が、付帯説明や例外に触れることのない本旨は、ときとして発信者の意図から外れた誤解や曲解を産むことが往々にしてある。上記ツイートの例で言えば、「小説の文章力は、ストーリーやキャラクターに先んじて評価されるべき軸である」という曲解を導く可能性を見られるのではないか。そしてそれが独り歩きしだすと、「文章力こそを評価するスタイル」の優位性を主張する波さえ発生しかねない。そのことを私の直感は憂慮している。
作品の受け取り方は本来千差万別であり、受信者個人の体験や文化形成でさまざまであるはず。小説の評価軸を物語に特化する人もいれば、表現にこそ大きな関心を向ける人も、それら総体を恣意的多角的視点で捉えようとする人もいる。ツイートの発信者もそのようなことは当然理解しているに違いない。だがテキストとなったツイートにはそうした曖昧さは盛り込まれず、ある意味二元論のような切っ先の鋭い刃物として呈示されてしまう。広告や作品自体であればそういった演出も当然ありだと思うが、考え方の表明でのそれは甚だ危険な匂いがするのだ。
Twitterという便利な道具が、私たちを分化し柵や溝をつくるような方向に導くものでなければいいのに、と強く思うこの頃。
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