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自殺を止めることは無責任なのか

私には遠方に住む友達がいる。
その友達を仮にAと呼ぶ事にする。
7~8年ほど疎遠であったが、1年ほど前からまたネット上で交流するようになった。
私はまたこうして話ができることに嬉しさを感じていたが、どうやらAを取り巻く状況は良いものとは言えないようだった。


①Aのこと

Aは死にたいらしい。
Xのタイムラインでは高頻度で死にたい、死ぬしかない旨の投稿を繰り返している。
Aは自身を無能で、社会不適合者で、この先生きていても惨めで苦しいだけだと信じてやまない。
言い方は悪いが、言うなれば開き直りのような状態になっている。
ではうつ病などの働けない程の重篤な精神的疾患があるのかと言われると、そういう訳でもない。
A本人は心の底から困っており辛く苦しい毎日なのだが、診断書のような分かりやすくその人の状態を表すものがないため、世間から見るとただの怠惰な人に見えてしまいがちだ。
そのこともAを苦しめている。

②自殺を止めることは無責任?

Aが抱える問題が解決可能かどうかはさて置き(私的には十分解決可能もしくは対処法はあると思っているが…)、状況として「私の友達が頻繁に自殺をほのめかしている」という事に変わりない。
先日なにやら切羽つまるような物言いで「こうなったら死ぬしかない」という内容をXに投稿していた。
いつもとは少し違う様子に嫌な予感がして、「友達が死のうとしてたら俺は絶対に引き留めるぞ。絶対に直接引き留めに行く。」とAに向けて自殺をすることに対して強く反対の意思表示をした。
そうするとAからこれらの投稿がされた。
原文ほぼそのまま記載する。

俺なら(自殺を)止めないな……死にたいほど辛いところをエゴでまだ生きてとは口が裂けても言えん。苦しみ続けろと同意やし。その後の人生の責任も取れないし。と10年以上前から思っている。

気持ちに関する話は聞いたりするけど「死んじゃ駄目」だけは絶対禁句として生きてる。恋人も自殺未遂まで何度も行く人だったが「死んじゃ駄目」だけは終始言わなかった。流石に酷すぎる。

俺が5000兆円持ってて、相手が無理に労働しなくても良くて治療代も気にしないで良くてって状態が作れて初めて引き止めてもいいかないいかなと思える。

つまり、私はAから「お前は随分無責任だな。これ以上私を苦しめるつもりなのか。」と言われたわけだ。
これに対して私は以下のようにAに言って(エゴを押し付けて)この話題を閉じた。

友達が死にたいって言ってて、じゃあ死ねば?というのが友達なのかな
俺はそうは思わないし、絶対に死んでほしくない
死にたいって言ってる友達を知らないフリもしない
これは本当に死ぬしかないと俺自身が判断するまで死ぬ選択肢なんて与えたくない
Aに嫌な奴だと思われても全然いいよ
俺は絶対に死ぬ事は許せないよ

その後Aがこれに反応することは無かった。

③誰が死ぬのか

確かにAが言うように、エゴを押し付けて他人の自由意思を奪うのは良い事とは言えない。
最大限その人の意志を尊重すべきだと思っている。
だが今回のケースで忘れないで欲しいのは「友達が死のうとしている」という事だ。
私はこの記事で生と死についての哲学の話や生命の尊さを説くつもりは一切ない。
私は成人君主ではないので正直に言うが、もしこれが縁もゆかりもない赤の他人だった場合、私もAと同じ考えを持つと思う。
赤の他人であれば私が肩入れする理由やストーリーはないし、自殺を考えている人の背景や事情もわからない。
拠り所が個人の倫理観だけになってしまうからだ。

これまで様々な理由から自殺を選択した人はたくさんいる。
私はその人たちを責める気にはなれないし、死ぬ事でしかどうにもならない問題もあったと思う。
闘病生活が生き地獄であったり、壮絶ないじめや過労によって心が壊れてしまったり、苦しみから解放されるために生命維持装置を外す選択をしたり、戦争であったり、事件に巻き込まれたり、この世の中には残酷な出来事が多く存在していて、それらを私がどうにかできたかと言われると全くそうでは無い。

だが今回のケースはそのどれにも当てはまらないし、尊厳死とか安楽死とかそういう類のものでもないし、何より他人ではない。
大切な友達や恋人が死のとうしているのを前にして、責任を取れないだの、エゴの押し付けだの、なぜそんなに冷めていられるのか私には分からない。
Aは自分の恋人にすら「死ぬな」とは言わなかった。
つまり、Aは私の想像の及ばないレベルで「死」というものをかなりドライに損得勘定で、感情と切り離して考えているのだろう。
死ぬ自由があるというのは聞こえはいいが、とどのつまり「勝手に死ね」と言っているようなものだ。
「自分は責任を取れないから」は自殺を肯定する理由にはならない。
私は5000兆円どころか100万円すらあげられないが、だからと言って「じゃあ自殺しても仕方がない」とはならない。
労働ができないなら生活保護もある。
私が解決できなくても別の人や行政が解決できるかもしれない。
なぜ都合よく「死は救いである」のような宗教じみた前提のもと自殺を肯定して、相手と向き合い改善を目指すことを放棄するのか。
ハッキリ言うが、Aの恋人の「何度も自殺未遂」という状況は矛盾している。
自殺なんて何度も何度もできるものじゃないはずだ。
死は一度しか無いのだから。
それは何を意味するのか。
つまり、「できれば生きたい」のだ。
本当は生きる事を肯定してほしいのだ。
友達、家族、恋人、その人にとって特別で大切な人が最後の砦なのだ。
最後の砦になり得る人から「そんなにつらいなら死ねば?」と言われた時、どれだけ絶望するだろうか。
本当に、本当に死にたいのなら、私のような偽善者の要求など押しのけて静かに自殺してしまうだろう。
手首を切ったりそのへんで売っている薬を飲んだりせず、確実に死ぬ方法を取るだろう。

私は友達に死んで欲しくない。
責任だのメリットだの、そんなことは後から考えたらいい。
できる限り私も力になりたい。
なによりこの先も君と仲良くしたい。
解決可能かどうかは生きていないと検証不可能だ。

④伝えたいこと

Aが本当に死のうとしているのか、その覚悟があるのかは私には正直わからない。
ただ、我々が日常生活を送る中で本当に心の底から死にたいと思っている人は果たしてどれほどいるのだろうか。
証拠はないが、いる可能性はあっても決して多くはないはずだ。
でもその反面、死ぬことを保留しているだけの人は決して少なくないと思う。
実は私も死んでしまおうかと悩んだことがある。
でも今こうして生きている。
それはなぜなのか。
今思うに、それは私の周りに自殺を肯定したり、言葉にしなくても暗に示したりする人が1人もいなかったからなのではないだろうか。
「死にたい」と家族に漏らしていたあの当時、もし家族から「それについてはあなたの自由だから、そんなにつらいなら死んでもいいんだよ」と言われていたら、もし親友から「俺は責任を負えないから無理に引き留めることはできないよ」と言われていたら、まだ精神的に幼かった私は何を感じ、どうなっていたのだろうか。
何かのきっかけでその言葉が自殺への最後のひと押しになっていた気がしてならない。
復活できるかもしれない未来を殺すかもしれないのだ。
生かすことへの責任を問うならば、同時にその思想で人を殺す責任も考えるべきだ。
「俺が殺したんじゃない、そいつが勝手に死んだんだろ。」
私はそういう世界を美しいとは思わない。
少なくとも、自殺してしまった友達やその遺族にそんな事は口が裂けても言えないし言おうとも思わない。

私はあえて断言する。
自殺は絶対にしてはならない。
自殺は止めなければならない。
自殺を止められる状況そのものが、その人が生きたいサインなのかもしれないから。

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