『ライティングの哲学』と脳のゴミ箱
格式高いレストランで食事に行こうとすると、それなりの装いが要求されるケースが多々ある。
見ているだけでも疲れる、しかしながら本人の魅力を最大に引き出すような美しいスーツやドレスがなんともお上品に食事をしている中で、襟の部分とかがビロビロに伸びたようなTシャツと寒さ知らずの小学生が来店したかのような短パン姿の自分が飯をガツガツと食べているのなら悪目立ちすることは明らかだ。
こういうときに、わざわざ飯を食うためだけに服なんて気にしちゃあいられないよ、みたいなことを言ってしまいたい気持ちが湧き上がるものだが、とはいってもやはり場所によってそれなりの礼儀が存在するもんだ。
そら、下町にあるようなちょっと小汚い町の定食屋に、常日頃自分の利益になるためのことばかり考えているやつが着るような、そんなギラギラした格好でカツ丼定食なんて食おうものなら、もうちょっとリラックスした格好で来てくれともいいたくなる。
「場所によって適切な礼儀がある」というのは、何もこの例に限らず、どのようなところでも当たり前のもので、ここのnoteというサイトで何かを書くことと、はてなブログで書くこと、Wordpressを用いて個人ブログを書くこと、それぞれには全く違うマナーが存在する。
いや実際にそのようなものを基準に人が書いた記事が叩かれるわけでもないし、ブログマナー講師という仕事が求められていない社会であるので(もしかするとライティング講師というのがそれにあたるかもしれないが)、マナーなんてものは気にしない方が良いだろう。
とはいっても、マナーなんてものはなくても、好まれる文章表現がそれぞれのサイトで異なっているのはほんの少しだけでも理解してくれることだろう。WordPressは、すぐに役に立ちそうな表現も簡易的なブログが多く、はてなブログなんてのはなぜそんなことを学ぼうと思ったのかという変態的な記事が多い。noteは個人の日記帳をネタに昇華してる感じがあるね。
そういうことを肌で感じていると、自分がいざ書き手としてキーボードを叩いてみると、何か心の奥底にどろどろともやもやとした邪悪なものが産声をあげることも少なくない。産声といっているのにもかかわらず、こんなにも誕生を喜べないものもあるのかという気持ちに襲われるほど邪悪な何かだ。
これは、ブログを書く人をいつも悩ませるような、「本当にこれでよいのだろうか問題」である。自分が面白いと思い、それをいざ表現せんと、ディスプレイと向き合って書いてみたそれが、実際文章に書いてみると何だか導火線がいたるところについている爆弾でも作っているかのような気持ちに襲われる。
このしんどさによって、多くの人はブログを書かないか、ちょっと書いたものを発表せずにそのままにしておくか、書いた後に黒歴史認定をするかという選択肢をとってしまう。
ブログだけじゃない、作曲だって、作画だって、作るもの全てにはこのような悩みが付き纏うことだろう。
『できる人』の私生活を覗くような本
そこで一冊の本をおすすめしたい。それが、「ライティングの哲学」という本だ。
前もって言っておくと、題名に書かれているような「書けない悩みのための」というのは、そもそも書きたいものも発信したいものも私にはございませんという悩みに向けてではない。
あくまで、書きたいものはいくつかあるのだけど脳みその中で化学反応が起きまくってなんだか意味がわからんこと起きてますわ、っていうちょっと贅沢な悩みを持っている人の方がこれに救われることだろう。
(といっても、書きたいものがないという考えを深掘りしてみると、実際はそういう活動を躊躇していたり、そもそも書きたいことを忘れていたりするので、この本が定めている読者の範囲はけっこー広いと思っている)
SNSでも知名度が高く、文章を書くことに優れた個性あふれる4人が、それぞれ「書くってしんどいし、難しいよね、だからこうやって乗り切っているよ」みたいなことを延々と話しているだけの本である。
苦しい理由とか対処法とか、苦しい経験を乗り越えたために生まれた発見だとか生活の発明品とかがでてくるので、書くこと=しんどいという話だけをしているわけではもちろんないのだけど、彼らが一貫した前提として持っているのは「書くってしんどい」である。
それを深掘りしてみると、表現法とか自尊心とか、方向性とかあらゆる視点でとにかく執筆のしんどさが書かれていて、読者に「このような計画を立てれば、執筆なんて簡単ですよ」という優しさはほとんどないので、居酒屋でのおっさんトークを見せられているような気持ちになる。まるで、仕事ができる人たちのダサダサな私生活を見せられている気になってくる。
それならばこの本は実用的じゃないかと言われるとそんなことはない。本に書かれた内容も、この本に出演している4人が俗にいう“文章を書くのが得意な人”という背景があってこそのものだ。
普段の言葉からは、執筆って面倒くさいみたいな雰囲気が出ていない。そのため、ここで語られているような彼らの苦悩とそれを乗り越えるための試行錯誤の数々は、ただ理想的な主張がでかでかと掲げられている役に立ちそうな本よりもより実用的な形として書けない人の悩みを解決してくれることだろう。
執筆における気苦労とか愚痴だけが飛び交うような話だけでは(そういうコンテンツだけでも十分に成立してしまうのが本書の面白いところではあるのだが)なく、彼らが執筆にあたって参考にしている思想だったりとか、自分の思考を整理するためのツールが紹介されているので、そういうものの使用感を試してみるのもいいかもしれない。
夢から醒めさせる重要性
文章がかける人たちの、文章を書くことに対する愚痴というのは、なんともロマンにかけるというか、書くことに夢を抱いている人を絶望に突き落とす所業というか、ちょっといじわるなものであるかのようにも感じる。
しかし、おそらくこの手の「人を絶望に突き落とす行為」というのは、きらきらしたものの側面、生々しい現実をみせることによって新たにその人を歩ませる原動力になるかの可能性もある。
これは、ホームランを量産する華やかな野球選手が、日々厳しいトレーニングをしているような現場を見せられているようなものにも近い。あるいは、世界で有名なとあるアーティストが一日中寝食も忘れてひたすらにキャンバスに向き合っているものとも言える。
本書はそう言った場面からさらに低い位置にあるともいえる。誰もが文章を書くことに、ちょっとした辛さや悲壮感みたいなのを漂わせているのだから、彼らが天才とか秀才というよりかは、限りなく一般人に近いような印象を私たちに与えてくれるのだ。
「好きなことで生きていく」というキャッチコピーがyoutubeで挙げられていた。一個の動画で軽々しく100万回再生を超えてしまうyoutuberの動画は、好きなことで生きていて、いかにも楽しくてハッピーですよみたいな雰囲気を感じさせてくれる。
だが、「好きなこと」というのはどのようなものなのか。どのような手触りがあるのだろうか。それをやっているときに、頭の中にはどれほどの幸せと苦悩が産まれるのだろうか。そのような詳しいものを見せてくれるものは少ないし、同時にそれを考える人も少ない。
そのため、好きなことというものに大きな幻想が生まれてしまって、「好きなものなどない」といった人たちが増えてしまうことにもつながる。厳密にいえば、好きなことがないというより好きなもののハードルが高いといったほうが正しい。
これもまた完璧主義の一種のようなもので、それを打開するためには生々しい現実に直面する、つまり夢から覚める必要があるわけで、本書のもっている大きな特徴だろう。
タイトルに書かれているライティングの「哲学」という言葉は、内容自体にそういった感じを思わせてはくれない。しかし、執筆時の心にメスを入れ、生々しい傷を読者に見せることによって、多くの人が持っている好きなもの幻想を覚まさせる意味としては、これはまさに「哲学」としての試みがあると言えるだろう。
本買ったり、コーヒー飲んだりに使います。 あとワイシャツ買ったり