若者が社会の中心になれないのは何故か
「若者が社会の中心になれないのは何故か」といった話が我が国では度々される。フィンランドでは2019年に当時34歳の女性首相が誕生し、台湾では40歳のオードリー・タンが活躍していると言われるその一方で、我が国の閣僚の平均年齢は60.4歳だ、年寄りばっかりの政治なんてけしからんみたいな世論が蔓延っている。
これを年功序列だ、パターナリズムという日本社会の悪しき文化のせいだという人は多い。日々学ぶ経験を誰もが等しく行っていない中で、誰もが年齢は等しく増えていくため、同じ年齢のある人とある人の知識量や知見の深さには大きな差が生まれている。また、若者であったとしても十分に考えて学んだものであれば、その実力は年長者と同じもしくはそれ以上として、それなのに年齢ばかりが重視されるのはおかしいという論調だ。
私も年齢ばかりが重視され、その人の実力が評価されないことについて嘆く気持ちは大いにある。というより、実力がある人はそれを十分に活かせる場所にいることが組織として効率的であるし、例え現時点で実力を付けていなくても、学ぶ人は学んでいくので、そこそこに実力がつけられるよう促せる環境があるのは社会の理想であると思う。
しかし、これが達成されない原因を偏に「年齢を重視する風潮」だけだとは考えいない。それはむしろ、若者側の「上手な生存戦略」にあるのではないか。その理由に70代と20代が同じ失敗を犯して、社会から大きくバッシングされることを想定してみると良い。
70代は高齢者であり、一般的には社会を動かす役割から退き自分の趣味を楽しみながら悠々自適に暮らしても問題がない世代だ。そのため、彼らが何か問題を起こして大きく批難されて、彼自身の人望が消え失せたとしても大きなキャリアプランを既に持たない彼らにとって大きな喪失にはなりえない。せいぜい、自分の知らないところで有象無象が話のネタにするくらいだろう。
一方で20代はどうか。70代まで十分に働くことを想定すると、継続的に(つまり安定しながら)ある水準以上の給料を求めたいところだ。そうすると、社会の中心にいるようなポジションは望まないことだろう。なぜなら、そのような役割には常に大きな責任が付きまとい、ひとたび失敗をしてしまえば、安定とは程遠い場所に追いやられてしまうからだ。
これは世間の目というのも十分に関わっており、彼の1つの失敗を覚えた一般人がSNSやYoutubeなどで、忘れるまで何度も彼を叩き続ける。それが彼のキャリアに影響を与える可能性もありうる。とある発言が原因で炎上して、自身の活動に被害が及んだ有名人は数多くいるが、社会を動かす立場の人間は常にそういった危険に晒されている。
また炎上の仕組みというのも厄介で、その発言や行動によってどれだけの人間が傷つけられたかとかではなく、どれだけの人間が「意見表明をしたいか」という物差しできまる。大した問題ではない一言が原因で、「あいつの発言、元々気に食わなかった」というような個人批判にすげ替えられるようになる。
こうなると、社会の中心となって得られるリターンよりも炎上する危険性と、それを小さくするために抑圧される当人の自由の方ばかりが目立つこととなる。
そうして膨らんだ批判は、SNSのRTでさらに多くの人に見られ、それを元に批難の意思を増大させ、挙句には社会問題の如く大きな悪性を発言者に結びつけるのだ。
そのようなハイリスクを受け入れるくらいなら自分は何も責任を取らぬまま、高齢者に責任を押し付けよう、建前では若者中心になるように世間へ訴えよう、というのが最適な戦略となる。
つまり、若者は自身の戦略で社会の中心にたたないようにしているだけというのが私の見解であり、彼らをそのような位置に持ち上げるためにはシステムや組織が変わる前に、一人一人の意識を変えねばならぬというくだらない意見に結局着地してしまうわけなのだった。
本買ったり、コーヒー飲んだりに使います。 あとワイシャツ買ったり