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映画『ニーチェの馬』

 ハンガリーの監督タル・ベーラの映画『ニーチェの馬』は、2011年、第61回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員特別賞)、国際批評家連盟賞(コンペティション部門)を受賞し、日本でも公開され、2012年度キネマ旬報外国映画ベスト・テン第1位になった。この異色作から、ニーチェのニヒリズムについて考えていきたい。

 『ニーチェの馬』の原題は『トリノの馬』である。ニーチェの読者なら、これらのタイトルから、1889年の例の出来事を思い浮かべるだろう。トリノの路上で、御者に殴打されている馬車馬を見たニーチェは憤慨し、「やめろ!」と叫んで駆け寄った。彼は馬の鼻づらを抱きしめると、そのまま泣き崩れ、正気を失ってしまう。それから十年間、狂気のまま、1900年、世紀の変わり目に世を去った。
 療養中の彼の姿を描いた画がある。特徴的な口髭もそのままに、長椅子に横たわって、じっと前を見つめている。いったい彼は何を見ていたのだろう。狂気に陥ったのは果たしてニーチェだけなのか、それとも二十世紀の世界の方ではなかったのか、といつも思う。

 二十世紀の世界は二度の大戦に見舞われ、アウシュビッツ、ヒロシマの惨禍を体験した。その後も、平和への願いは空しく、いまだに世界各地で戦火は絶えない。ホロコースト被害者の子孫が、ガザで恐るべきホロコーストを行っている。その殺戮は最近始まったことではない。何十年も前、パレスチナ人を迫害するイスラエルの若者たちを、一人のユダヤ人の老婆が必死で止めていた。「ナチスはあんたたちと同じことを私たちにしたのよ!」。この老婆のようなイスラエル人は、もういないのだろうか。

 シオニストは、「この地は、三千年前、神が私たちに約束した土地である」と平然と言う。これは信仰ではなく、狂気である。プーチン、習近平、トランプら独裁者は、「偉大な国」を取り戻すと誇大妄想に憑かれ、イーロン・マスクら超富裕層は、荒れた地球を見捨て、火星に移住する準備を急いでいる。それを横目に、人々はスマホに夢中だ。 

 ニーチェが「神の死」を告げたことは誰でも知っている。だが、それが出てくるアフォリズムを読んだことがあるだろうか。「狂気の人間」と題された、この一節は、何度読んでも戦慄する。白昼、提灯をつけて広場に駆け込んできた男が「神を探している」と叫ぶ。人々は「神さまが迷子にでもなったのか。隠れん坊をしてるのか」とあざ笑う。男は彼らをにらみつけ、「俺たちが殺したのだ」と告げる。俺たちは無限の虚無の中を彷徨っているのではないか。たえず「夜」が、「ますます深い夜がやってくるのではないか。真昼間から提灯をつけなければならないのではないか」と不気味な予言をするのだ(『悦ばしき知識』第三書.No.125)。
 その「夜」が、今日ほど身近に感じられることはない。

 タル・ベーラの映画『ニーチェの馬』は、その近づきつつある夜を描いているように思える。モノクロで描かれた、この徹底的に暗い映画は、十字架に架けられたキリストの最後の叫び、「エリ・エリ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか)」の映像化のようにも、また近未来の私たちの終末の姿のようにも見える。「終末時計」は残り89秒を打った。

 風の吹きすさぶ過酷な荒野で生きる父と娘がいる。1日目、2日目、3日目と日を追うにしたがって状況は悪化していき、なぜか馬もエサを食べなくなり、最後には井戸の水も涸れ、ランプもつかない。6日目、暗闇のなかで、食卓に置いた生のジャガイモを前に、父親は娘に「食わねばならんのだ」と呟いて、映画は終わる。

 冒頭に登場する馬の荒々しさ、躍動感は圧倒的だ。途中、焼酎をもらいにきた男の語る奇妙な神学論と終末論。ハンガリーの奇才監督の最後の映画という期待感がなかったら、二時間半を超えるこの長編を見続けることは難しかったろう。ここから先、どこに行けるというのか。「見ると死ぬよ」と、あの恐怖映画の専門家、柳下毅一郎さえ評しているのだ。 

 日本での上映会で、ベーラ監督いわく、「聖書には、神が6日間でこのクソみたいな世界を作ったという創世記がある。この映画はその時間を逆行していて、日々のうちに何かを失い、やがて終末を迎える。我々は毎日同じような日々を過ごしていると思い込みがちだが、人生は毎日変わっていくもの。余生は日々短くなり、私を含めみんなが孤独な終わりを迎える。このような問いかけに触れたかった」。

 またインタヴューで「最後の作品として、何か観客に対してメッセージを込めて製作したのだろうか」という問いに答えて曰く。「メッセージはありません。これはただ映画であり、もしそれが観客の心に触れて動かすようなことができれば、我々はパーフェクトな仕事をしたと思います。で、結果がでなければ我々は間違っていたのだと思います。私は予言者ではありませんし、友人とともに我々の見る、感じる世界を描いています。黙示録(アポカリプス)は、テレビや映画では業火がでてきたりしますが、本当の終末というのはもっと静かな物であると思います。死に近い沈黙、孤独をもって終わっていくことを伝えたかったのです」。

 タル・べーラは、まだニーチェの「神の死」の呪いのうちにいるようだ。「深い夜が、ますます深い夜がくるのではないか」と、「狂気の人間」のように怯えているのだ。創世記の6日間を反転させるという発想そのものが、彼が抜け出せないキリスト教の呪縛を物語っている。

 しかし、ニーチェの思想はそこに留まるものではない。ヨーロッパを支えてきた一切の価値が崩壊するニヒリズムの到来を予告した彼は、またその超克も示唆している。その予兆は、たとえば同じ『悦ばしき知識』初版(1882年)から五年後、第二版に増補された「第五書」の冒頭に置かれた、もうひとつ別の「神の死」を語るアフォリズムに、はっきり読み取れるだろう。

 「われわれ哲学者であり〈自由な精神〉である者は、〈古い神は死んだ〉という報知に接して、まるで新しい曙光に照らされでもしたような思いに打たれる。われわれの胸は、このとき、感謝と驚異と予感と期待とに溢れみなぎる、————水平線はついに再びわれわれに開けたようだ、まだ明るくなってはいないにしても、われわれの船はついに再び出航することができる、あらゆる危険を冒して出航することができるのだ。認識者の冒険のすべては、再び許された。海が、われわれの海が、再び眼前に開けた。おそらく、こんなに〈開けた海〉は、かつてあったためしはないだろう。」

(『悦ばしき知識』第五書「われらの快活さが意味するもの」No.343)

 「狂気の人間」が語る「神の死」は、恐るべきニヒリズムの夜の到来であった。だが「われらの快活さが意味するもの」における「神の死」は、夜明けの希望である。この対照的な二つのアフォリズムを隔てる五年間に、二冊の重要な書物、『ツァラトゥストラ』(1883-85)と『善悪の彼岸』(1886)が刊行されている。夜の到来から夜明けへ、ニーチェの思想は大きく転回した。一体、何が起こったのか。

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