日記(書くことがない)

 日記的な記事ってどのくらいの文量がいいんですかね?少なくとも昨日(1600文字)は書きすぎた。1500字を超える駄文を毎日書いてたら明後日くらいに飽きると思うので今日は手短にまとめます。(そもそもネタがない)

 昨日友達に勧められて日野日出志の短編漫画「蔵六の奇病」を読みました。スキマで「いつでも無料」に入っているのでぜひ読んでほしいです!(グロ中尉)。

 すばらしい作品でした。奇病にかかりながらもひたむきに生きる蔵六という痴呆の青年と奇病の彼を疎む村人、そして蔵六を想う母の物語です。奇病の腫瘍から出る7色の膿が出て、蔵六がそれで美しい絵を描くという不思議な展開が入ることで、美と醜という概念が、超現実的に描かれていきます。そしてラスト……は初見のほうがいいかもしれないのでいったんURL貼りますね。短編集まるまる無料で、「1話」となっている話だけで蔵六の奇病は完結しています

 このラストにすごくしびれました。
 まずこの作品のテーマとして蔵六という"醜い"主人公の美しさとそれをのけものにする"まっとうな"人間の醜さが皮肉な二項対立として描かれていると思います。

そういう作品は基本的に美しい価値観を心に宿した側が称揚されたり、最終的に勝利するというカタルシスを与えて終幕することが多いと思う(民話調ならなおさら)のですが、本作はそうした物語上の救済を与えるのではなく、美しい亀になって終わるというのがすごい。先述の二項対立を打ち捨てて、人間の域から完全に離れた神性にいたったわけです。

 これはつまり「美しい7色の絵具がけがらわしい腫瘍から出る」ということが象徴していた美と醜の同一性がついに極限に達したことを意味しているのだと思います。じっさい最後の亀もセリフや文のうえでは美しいといわれますが、白黒の絵のうえではその輝きはなく、目から血を流している怖さや沼の死のイメージがまさっていて、醜に近い恐ろしさをも(読者に対して)見せつけています。

 つまり「人間の領域」から外れた極北に「美」と「醜」が同一にあるっていう世界です。

 「村人(醜) - 蔵六(美)」という二項対立から「生ける人間(弱い美醜)に対して神化した蔵六(究極の美と醜)」というすごい上下構造に変わったという言い方もできるかな?

 聞きかじったはなしなのですが、世界中の宗教に、ケガレと美(神聖)が同一視される風習があるそうです。そういう意味でも神話に通じる話なのですが、醜というものを主軸に描き切ったのが本作の特筆すべきすごさですね。そのために蔵六が描いているという美しい絵がほとんど画面に映らない。結局どんな美があったのか、読者には明確にはわからないという演出について、僕は中島敦を想起しますが、マンガだといままでまったく見たことない。ふつう描きたくなっちゃいますからね、美しい絵を。


 とまあ感想は以上で関係ない話題を。ベラルーシでは「欧州最後の独裁者」の異名も持つルカシェンコ大統領にたいする反政府活動が選挙(いつも票操作が堂々と行われていた)をきっかけに隆盛し、事態が急変しました。

 そんななか視察に行った工場で追い出された映像を見たのですがそれがすごい。

 工場の男たちに出ていけーと言われてもさほどは動揺や怒りを見せず、最終的にありがとうと言って出ていく。さすが30年近く君臨する権力者という感じだが、その何とも抑えた表情の下に透けて見える感情に、独裁者の悲しみがあるように思えてなんとも悲しかった。同情ではなく、現象に対する静かな哀しみと言いますかね。

 昨日は二つの話題がつながった感があったけど今日はそういうの特にないですね。まあその雑多な感じこそ日記らしいのかな。平安時代の日記文学ってわりとほとんどが後でまとめられた私小説とか回想録的なものなんですが、自分もそういうタイプの日記にまとめたい気もする。とかなんとか書いているうちに気づいたら1500文字を越えてしまった。なので明後日には飽きてこのnoteは終わります。

 

この記事が参加している募集

にょ