旅の記憶 1995春 拉薩へ
29年前の春
僕は拉薩を目指していた
当時の日記より
1995年3月5日
西寧駅に到着
真っ暗な駅前から行く先も確かめずにミノとカトーと3人でバスに乗り込む。
車掌に行き先を告げていたが、真っ暗闇の中で下される。ホテルがどこかわからぬまま3人で闇の中を歩くがホテルらしき建物は見つからない。
小さなホテル(中国人用)を見つけて
再度尋ねる。たまたま居合わせたおじさんが、英語を少し話せて目指す西寧賓館まで案内してくれた。
1泊30元 少々高いが他を探す元気もなくそのままチェックイン
電車旅の疲れかがどっと出る
あったかいシャワーと暖房がありがたい
1995年3月6日
もっと安いホテルを探しながら街を歩く
半額の15元のホテルを見つけるが
移動も面倒なので結局ホテルは連泊することにする
街はチベット族よりもウイグル族の姿が目立つ
ホテルに戻り、明日は青海湖ツアーに行こうかと、3人で相談するが、ツアー料金が600元と聞いて断念 高すぎる
しかもめちゃくちゃ寒くて3月に行くところではないらしい
結局翌日はラサへの移動のためにゴルムドの街に移動することにする
拉薩へ向かう前に 防寒着を買う(120元)
その夜、カトーが突然吐いた
多少熱もあるようだ
西寧の街は標高2275m
高所にある町でおそらく軽い高山病の症状が出ているのだろう
1995年3月7日
カトーの症状は和らいだが
拉薩はさらに標高が上がるため
ミノとカトーは今日の移動をあきらめてもう1日ここに滞在するという
それを聞いた僕は
「 じゃあ俺は先に行くよ 」と伝えた
2人はびっくりした顔をして 「え?」 と聞き返してきたが
僕は貴重な日程を休養に使うつもりもなかったし、何よりいつまでも3人一緒に行動していては、せっかくの旅の醍醐味が半減するなと感じ始めていた
3度目の中国旅行だった僕は
旅に必要な簡単な最低限の中国語の会話はできるようになっていた
3人で一緒にいると、値段交渉やホテルのチェックイン買い物なんかも全て僕が主体で交渉することになり、ミノとカトーは後ろで聞いているだけなのが気になっていた
せっかく異国の地に自由旅行できているのだから、こうした交渉や苦労を楽しんでほしいという思いが僕にはあった
なので、僕は2人を残し、先へ進むことにしたのだが・・・
僕はこの判断を少し後悔することになる
ホテルを出てバスターミナルに移動した僕は
チケット売り場の前で話しかけてきたおじさんから
値段交渉の末、90元を支払いバスに乗り込む
食料を買い込み、バスに乗り込み
待つこと1時間半、次々と乗客が乗り込んでくる
そこでようやく騙されたことに気がついた
中国のバスは基本的には全席指定席(一応は)チケット売り場でチケットを買わなかった僕の席はそのバスにはなかった。
チケットを売ってくれたのはバスの運転手で
運転席用のベッド(長距離バスは運転手が2人いて、交代で仮眠を取りながら走り続ける仕組みだった)の隣の小さなスペースが僕の席だという
なんのことはない 運転手の小遣い稼ぎで
運転手が僕から直接チケット代をせしめたのだ。お金も払ってしまっているし僕は観念してそのバスでゴルムドへ移動した
1995年3月8日
ゴルムドから拉薩行きのバスを探す
CITSでチベットへのバスと旅行証合わせて 1070元
当時のレートで日本円で約13000円
かなり高額だと感じたが、他に手段はなさそうなのでその場で購入。
ここに来るまで、この通行証が買えるか買えないかがわからない状況だった。
中には買えずに引き返した旅人がいたなんて噂もあったので、通行証を手に入れたことに安堵した。
1995年3月9日
いよいよ拉薩行きのバスに乗り込む
予定では28時間かけて拉薩に着くはずだ。
シルクロードの時と違いノンストップで走るという。
実はこの時、僕も高山病の症状が現れていて
食欲も元気もなかった
でもとにかく拉薩に行きたい一心で行動していた
1995年3月10日
まだつかない・・・
1995年3月11日
AM3時 予定より12時間遅れて
バスはラサの街に着いた
28時間で到着する予定がが 40時間
ほぼまる2日間バスに乗っていたことになる
この時の僕は空腹と頭痛でボロボロだった
バスに乗り合わせた日本人もおらず
乗り合わせた欧米人の旅行者2人とタクシーにてホテルへ移動
そのまま倒れ込むように眠る
1995年3月12日
朝目覚めて 食料を求めてホテルを出るが
めまいと吐き気で歩くこともままならず
ホテルに戻る
かろうじて水とオレンジだけは手に入れる
ドミトリーの部屋には僕1人しかおらず
動くに動けない状況が続く
日本人の声が聞こえたので
話しかけるが、相手の声がよく聞こえない
立っているのもしんどくなって 部屋に戻って眠る。
体調がとにかく悪く、朦朧として買い物もままならない状況が続く。
ドミトリーの部屋も誰もやってこないから助けも求められずにいた
1995年3月13日
ようやく意識がはっきりしてきた
ホテルの庭に出て休んでいると
日本人の旅行者がやってきた
挨拶を交わす
昨日話しかけたのも彼らだったようだが
その時の僕は目の焦点も合わず
ろれつも回っていない状態で
彼らは、薬をやっているヤバい日本人と思ったらしく関わってはいけないと思ったらしい
僕はどうやら高山病でかなりまずい状況だったらしく自分でもよく当時のことは覚えていない
この辺りの記憶は酷く曖昧だが
とにかく僕は憧れのチベットにたどり着いたのだった
ようやくチベット旅行が始まろうとしていた