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月刊『Hanada』2024年7月号③

 当初のタイトルが「けんけんのこと」であったことはこちら(☞ 棚から『Hanada』)で書いたが、村西とおる監督が「私のなかの西村賢太」とご提案くだすったのだ。

 心の汚れた私は当初、「けんけんのこと」がいいと食い下がってみるなどしたが、最終的にはエンターテインメントのプロである監督がわざわざこうして言ってくださるのだから、とお受けしたのである。

 アッという間に数ヶ月が経って、今ではすっかり、あれでよかったなぁ、と有難く思っている。

 というのも、文中に「ドカッと」という副詞がある。これを私は当初「ドッカと」と書いた。noteの他の記事にも「ドッカ」と書いている。

 ところが、一丁前にゲラというものをいただいてみれば「ドカッと」になっていた。

 訂正すべきでないか、私は悩んだ。キナキナと悩んだ。しかし、悩む自分を「作家気取りか」と嗤う自分もいた。

 どうでタイトルがもう、自分の思っていたものとは違うのだし、プロ編集者がこう打ってくださっているのだ、これは快諾すべきではないのか。

 いや、やはり「ドカッ」では引っかかる。「ドッカ」のほうが座りがよい。しっくりくる。

 しかし、編集者の方だって何も原稿を矯正するつもりだった訳ではなくて単に私の書き間違いだと思って直してくださっただけかもしれないし、そもそもどう見たって「ドッカ」より「ドカッ」のほうが一般的である。ならば原稿を「ドカッ」と読み違えられた可能性だってあるからして、私がゲラを訂正したところで角は立たないはずだ…

 …などと、あれで随分、右往左往、悶々としたものである。

 で、結局これは、そのままにしたのである。

 藤澤清造、田中英光、横溝の名前が出せてそのルビをってもらえたのだ、降りかかる火の粉を払って斬って捨てたかのような心持がしていた。

 実はこちらも、気の小さい私は、最後の最後まで全く変な遠慮をして、言い出すに言い出せず、電話で編集者の方から「これで最後になりますけれども」と言っていただいて初めて、ギリギリと追い詰められた塩梅で「…(グヌヌ)」と緘黙したのちにもう、どこぞの舞台から飛び降りるような気持ちで、ようやっと申し出て直していただいたのである。
 よってより一層の達成感めいたものがあったというのである。

 ところが先日のことだ。西村賢太を読んでいて「ドッカ」に出会でっくわしてしまった。

 「だからお前は!」と嗤う声がした。

 ほらな!やっぱりな! 違和感に根拠なんて要らないんだよ、グチャグチャ考えてないでサッサと訂正させてもらえばよかったんだよ、というかそれ以外に何があった? この、顔色伺いの小心者が! お前の達成感とか、どうでもいいんだわ! 追悼だなんだと抜かしおって何がお前の達成感だ、偽善者か!

 …しかし一方で、自分に甘いのも私である。

 「ドカッ」に違和感があったということは、これすなわち西村賢太が「なかにいた」ってことだよなぁと思えば嬉しくもあり、監督の考えてくだすったタイトルに間違いはなかったのだなあ、と、ついに腑に落ちたのである。

 先の声は、聞いたことのある「お前はよぉ…」との呆れ声に変わった。

 それに、何かが美味しかったとき、きれいだったとき、甥っ子や姪っ子と大笑いしたとき、いつもけんけんに話しかけている。
 平気で月命日を忘れていたりはするので偉そうなことは言えないが、それでも帰宅すれば必ず、けんけんが布団で仕事していた部屋の前を通りながら、「ただいま」と言ってしまう。
 相変わらず途轍もなく寂しくはあるが、間違いなく「中にいる」のである。

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