「〇が好きです。」→「じゃあ〇〇は嫌いなんですか?」
おはようございます。音楽家の河野一之です。
僕はあまり経験が無いと言うか、恐らく気にしていないので覚えていないだけなんだろうけども、この国では例えば
ラーメンが好きです!
→じゃあお米は嫌いなんですか?お米は一切食べないんですか?
ビールが好きです!
→ビールしか飲まないんですか?
ちょっと変化球で行くと
息をたくさん吸って演奏してください!
→そんなに息を吸わなくても演奏できます!
このマウスピース良いですよ!
→それ以外のマウスピースは良くないって言うんですか?
なぜか何かを肯定すると
・その肯定したもの以外は好きじゃない、嫌いなのかと聞かれる。
・その肯定した意見が絶対!のように取られる。
とこうした事象が起きる。
なのでTVもSNSも誰かしら何かしらを発信する際は
※誹謗中傷を目的としていません。
※他にも好きなものはありますが、ラーメンが一番好きなだけです。
※あきらかに息が吸えていない奏者へのアドバイスであって既に必要な量吸えている奏者に向けているものではありません。
※自分が好きなマウスピースを紹介しているだけです、他のマウスピースの良し悪しは人それぞれだと思います。
のような注意書きが書かれる、しかしよく見るけれどもこれには本当にうんざりだ。
今日はなぜこれが起き、どうしたら良いのか考えたい。
目次
想像力の欠如
〇〇が好きです→〇〇以外は嫌いなんですか?
〇〇という方法をとった方が良いです→それ以外の方法はダメなんですか?
このやりとり、想像力が欠如しているゆえに起きているのではないかと推測する。
〇〇が好きです!ときたら他にも好きなものは恐らくあるだろうけどもその〇〇が今の会話の流れの中では一番好きだという話だから出てきた答えだ。
誰も「〇〇以外は好きではありません!」とは言っていない。発信に対し受信側の想像力が足りないゆえこういう返答がくるのではないか
様々な勉強をしていると人それぞれ本当にたくさんの考え方を持っているのを知る、多くがこちらの想像の範囲外の考え方を持っていて本や誰かの話を聞くと言うのは常々楽しい。
そう言う風に様々な人の意見や考え方に日々触れていると、例えあまり多くの人が持たない意見や考え方に触れても「あぁこの人はこう言う風な意見を持っているんだな、なぜかお伺いしてみよう!」となる。
でもあまり多くの意見や考えに触れられておらず、知識や未知への許容ができないと
・何言ってんだこいつは
・信じられない
・それ以外はダメなのか!?
・こちらの意見に反対なのか?!
と敵対してしまったり、ネガティブな反対の感情が湧いてくる。
息をたくさん吸って演奏しましょう。
よく言われる考え方の一つで
「そんなに息を吸わなくても演奏できますよ」
「楽に吸って楽に吐けば良いんですよ」
これらの意見がある。
全くその通りだし、反論も一切ない。
でも例えば僕のレッスンを受けに来てくださったAさんという奏者がいたとする。その奏者の呼吸量が明らかにベッドで横になりのんびりしている時の息の吸い方、または話している最中のような特に息を深く吸わずに浅い息の量や吐く圧力の具合ぐらいで吹いている。
それで楽器のポテンシャルが出せていて、自分の理想の演奏ができているなら良い。でもそうでないからレッスンにわざわざ来るわけだ。ではそういう場合なんて言うか
「息をもっと吸ってもっと吐きましょう。」これだ。
ここからアドバイスをかけ、たくさん吸う=力を入れて頑張って吸うのではなくリラックスして深く広げるようなイメージでとか
欠伸している時にそんなに力入れないですよね?とかそういう話に発展していく。
楽器によっても違うだろうし、奏者によっても違う。
まとめ
堂々巡りな話になりそうなこの話題であるけれども、どんな意見にもポジティブな側面とネガティブな側面は生まれる。
更に言えば、発信した方はその真意に関わらず発信した後にその発言を訂正することはできない
受信者はその発信を受け色々思うわけだ。でも国を動かしたり裁判の判決例のようなものは別として
多くの場合その時生まれた意見は
・その時期の意見
・その発信者のことをより深く知っている人が受信するのとそうでない人の受信の仕方が異なる
これだけだ。
しかも大変残念ながら「ネガティブに受信し揚げ足を取りたい人」というのはどれだけ数を変えても働きアリの中に一定数必ず発生する働かないアリがいるのと同じでこの世にはたくさんいらっしゃる。
なので一々そこに引っ張られず、全ての意見にまずは
「あなたはね」
というその人が持つ言論の自由を持つ権利を認め、その後賛成なら賛同し、そうでないなら反対だ!と戦うのではなく意見を交わしより深く理解できるように努めるのが大切だ。それさえ面倒な場合は放っておけば良い。
意見が違う、わからない知らない、理解できない
これだけで噛み付く人が多い世の中で、僕の知っている人たちはSNSという開かれた社会での発信を諦め多くの場合独自のコミュニティを創造しそこでコミュニケーションを取り始めている。村社会が多かった日本がインターネットによって一度開かれた社会となり、また現在どんどんそれぞれのコミュニティが小さくなり再び村社会を迎合している形になる。
なのでSNSという開かれた世界では当たり障りのないどうでも良い情報しか流れなくなり、その閉ざされた村の中では信頼できる仲間や村民たちと自分の意見を裏表なく交換し合いより高度なコミュニケーションをとっているのである。
これがどんな未来を作っていくのかはわからないが、今後が楽しみ
ちょっと堂々巡りしましたが、ご読了いただきありがとうございました。
Thank you
Kazz
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