【番外編4】「僕はこうして藤田京弥になった」を読んで
先日,藤田京弥さんの「僕はこうして藤田京弥になった。日本バスフィッシング史の最高傑作を生んだ50の掟」を読んだので,感想を述べたいと思います.
内容としては,幼少期から現在に至るまで藤田京弥さんが大切にしている考え方やそのもととなった体験が綴られています.虫捕りにハマっていた話などもありますが,基本的にはバスフィッシングを通じて感じたことや,バスフィッシングのために意識していることがたくさん書かれています.
素人が"本当のパターン"にたどり着くことは不可能
一番印象的だったのは,パターンフィッシングに関する記述です.最近は,北大祐さんと木村建太さんの「僕たちのバスフィッシングにセオリーは必要ない」や,青木大介さんの「適材適所のルアーセレクト」など,パターンフィッシングに疑問を投げかける書籍が多く,【雑記帳8】でも述べたように田辺哲男さんの書籍に感化されてバスフィッシングにのめり込んだ私としては少し寂しいような気もしていました.同時に,バスフィッシングの正解としてのパターンに囚われすぎている自分も感じており,それがこのノートを書くきっかけになっていました.
そんな中,藤田京弥さんの「("本当のパターン"には)トッププロでも1日の釣りでは絶対にたどり着けない」という意見が非常にしっくり来ました.パターンは存在するが,サンデーアングラーがそれにたどり着くのはほぼ不可能ということです.パターンフィッシングに対して疑問を投げかける意見の中には,パターンの存在それ自体をどう考えているのかがはっきりとしないものも多かったのですが,藤田京弥さんの意見は非常に納得できました.
そもそも,田辺哲男さんが提唱したパターンフィッシングの定義に立ち返ってみると,「バス釣りストロングパターン」という書籍では,パターンフィッシングとは「シーズナルなバスの動きを読むことにはじまり,それを基軸としてその日,そのとき,その場所での一定の法則を導き出し,狙いを定めたバスを次々と釣り上げていく」釣りと書かれています.
つまり,もともとのパターンフィッシングはパターンを現場で導き出そうとする姿勢に重きが置かれているのであって,正解としてのパターンを頭に思い浮かべながら目の前の状況を短絡的にそれに当てはめていくような釣りのことではなかったのですね.それが,いつの間にか,〇〇パターンという言葉とともに特定の釣り方を指すようになってしまったのだと思います(それもあってか,最近は田辺哲男さんご自身もパターンフィッシングという表現は使われていないような気がします).パターンフィッシングに否定的な意見に対して私が感じる疑問は,このようなパターンフィッシングの定義の違いからくるものかもしれません.
釣れたバスからなるべく多くの情報を得る
もう一つ,本ノートとの関連で非常に興味深いと思ったのは,藤田京弥さんはご自身の強みを「ひとつの物事から読み取る情報が多いこと」だと考えているという点です.本ノートでも,バスフィッシングを判断,実行,情報更新のサイクルと考えており,本ノートの観点で言うなら藤田京弥さんはこのサイクルを回すことが非常に得意なのだと思いました.具体的には書かれていませんでしたがバスの表面のヌメリやツヤからもわかることがあるそうで,びっくりしました.本ノートのフレームワークにもいつか取り入れていければと思います.