弱さを認めて走り続ける
こんばんは。ムラカミリョウです。
人生楽あれば苦もあるさ、とは本当によく言ったもので
生きてると自分の至らなさや、逆によく頑張ったな!自分!という感情が交互に来てよくわからないフワフワした感じで満たされています。
出会う人が多くなってくると「ああ、凄いな」と感嘆に似たため息が出てくることもしばしば。
なかなかに向き合わせてくれます。めっちゃ有難い。
僕いう人間が如何に弱く、しょーもなく、サボリ癖があることを受け止めて、
自分が意思の弱い人間であるということを受け止めて、その上で、そんなダメ人間が走り続けられるように仕事や私生活を設計していくことが非常に重要だと感じています。
走るのをちょっとだけストップすることだって人生の選択肢なわけで、
闇雲に走り続けるのが良しとは思いません。
だけれど、それでも人生は進んでいって
刻一刻と「死」というものが迫ってきているのも事実です。
「死」というのを意識するのはおじいちゃんやおばあちゃんが亡くなった時とか、知ってる芸能人が突然亡くなったとワイドショーで報道された時など。
けど、必死に生きてるとそれ以外にも「ああ、いつかこの苦しみから逃れられるんだろうな」とか「ああ、この楽しさはいつか終わってしまうのかな」とか刹那的な感情を察知したりします。
そうなってくると弱い自分ってものがだんだん可愛く思えてきて、
自分の限界をネガティブではなくポジティブに受け止められるようになってきて、
器というものが大きくなってくるような気がしてるんです。
瞭という字は「はっきり、くっきりと一目瞭然」から来ています。
嘘をつかずに、堂々と白黒ハッキリさせてやろうと。いってやろうじゃないの。
苦手なことは苦手。弱いところは弱い。
そんなことを認めた上で、じゃあここの部分は他の人に助けてもらおうね。とか、その分強みをいろんな人に分けてあげようね。とか
受け止めて走ることができることって一番強いと思うし、
生きるのがちょっぴり楽になるような気がしてます。
どうでしょう?