結局、やりたいことをやった方がいいという結論に達した。
長引くデフレ、新型コロナ不況、日本のIT後進国化、老後2,000万円問題、OECDの中でも下位の安い賃金、環境破壊による天災多発…
インターネットやテレビ、本により様々な情報に触れ、将来に悲観的になりがちな毎日を送っている。きっとそれは自分だけではないと思う。
こんな時代、こんな世の中、それでも生きなければならない。
将来のために、何かしなければ。
将来のために、資産形成しなければ。
何か資格の一つでも取って、転職可能性を高め、組織に依存しない人間にならなければ。
副業もしないといけないのかも。
日々、憂鬱になりながら、ではどうすればいいのかと自問自答していた。
簿記やFPの資格取得勉強や英語学習したらどうかと思っても、結局長く続かず。気づけば30歳目前。
この前、同期が一人、転職に向けて退職するのを目撃した。上京し(コロナ禍にも関わらず)、周囲の反対を押し切って、一人飛び出していった。
それを見て、自分も何かやらねばと、焦るだけ焦り、しかし自分はもう結婚していて、そんな思い切った冒険もできないし…と、結局言い訳し続ける毎日。
そこで、ふと思い立った。
何かしなければいけないという義務感に駆られてやっているから、何事も持続しない。
周囲に流されているから、表面だけなぞった知識に翻弄され、日々が蝕まれていく。
読みたいものを読まねばならない。
勉強したいことをしなければならない。
自らの内側から発する熱意があるのなら、その自らの心の声を聞き、周囲の流れに逆行しようとも。
例えば、司書資格。
一般的に、そもそも現状で食えない資格であり、取ったところで、これからAIの進化でますます不要になりそう。
ただ、自分の場合、役立てられる異動先が一つある。公立図書館。そこに異動希望を出しても、なかなか通らないものだ。もしかしたら、司書資格があれば異動できる可能性が高くなる。
転職可能性という観点からは、はっきり言って司書資格は無駄かもしれない。学費を考慮したら、コスパは悪い。
しかし、自分が取りたいと思ったのに、そういった外部的な要因で断念すると、自分に虚無がやってくる。
コスパや有益性といった合理的な観念でものごとを判断しすぎると、新自由主義的な捉え方で人間を判断し過ぎると、自らの特異性は消え、圧倒的に無機質な、代替可能な部品でしかなくなる。
簿記や基本情報、英語といった役に立つ資格は、経済社会の歯車としては役に立つが、そこには競合他者が多数存在し、しかもプロレベルも多数いて、果たして本当にその勉強は「自分にとって」適正か?自分かやりたいことなのか?
一般論に流されて、虚無的な存在になるくらいなら、心の声に従って、前を向こうと思える熱意に自分を委ねた方がいい。