『秋茄子と食えない老母』
今朝は秋茄子の入った美味い味噌汁を飲んだ。明日も明後日も作ろうと思う。
秋茄子がたくさん出回るこの季節になると、必ず言われるのが
「秋茄子は嫁に食わすな」
という謎のフレーズ。
先日、新聞か雑誌に
「秋茄子はよめに食わすな」の“よめ”とは漢字で“夜目”と書き、嫁ではなく実はネズミを意味している。「秋茄子をネズミに食べられては勿体ないですよ」という先人からの戒めの言葉
と書いてある記事を読んだが、
全く冗談じゃない。そんな解釈、有り得ん。
ヨメは嫁。文字通りの意味だ。
私はここで秋茄子と山登りの関係について述べたいと思う。
人は何故山に登るのか?
山登りは疲れる。山頂に立った所でそこには何もない。山を登れば腹が減り、遭難したり命を落としたりする危険もある。
だが大きなリスクがあるにも関わらず、登山客が途絶える事はない。
何故そこまでして山に登りたがるのか?
それは山登りのない人生の方が、山登りのある人生よりも実際には疲れる事が多いからなのだ。仕事やセックスと同じ事だ。何もしないで時間を浪費するよりも何かしら作業していた方が、疲れずにかえって楽なのだ。
秋茄子と山登りに一体どんな関係があるのか?
これから秋茄子を食うのは山登り以上に疲れるという話をする所だ。
秋茄子を食べるのは山登り以上にリスクが大きい。
自分の生命だけでなく一族の存亡にも関わる重大問題だから、決して秋茄子は嫁に食わすなという昔からの尊い戒めを今一度ここで確認してみようと思う。
鎌倉後期の私撰和歌集『夫木和歌抄』にはこんな和歌が納められている。
「秋なすび わささの粕につきまぜて よめにはくれじ 棚におくとも」
これが「秋茄子はよめに食わすな」の語源との説がある。しかし「“夜目”は隠語であった」こと、「新年に忌み詞としてネズミを“嫁が君”と言うが、正月三が日のみ使われるのが一般的で秋には使われない」ことから、「この和歌の“よめ”は“ネズミ”を表した可能性がないわけではないのだが、よめをネズミと断定するまでには至らない」のだそうだ。
古典文学まで持ち出して如何にも学者で御座いな、どっち付かずでぼやけた説明でいい気なもんだが、全く冗談ではない。私は断定する。
わささの粕とはチンカスの事だ。
セックスを我慢して秋茄子が夢精でチンカスまみれになろうとも、褌が精液でカピカピになろうとも、股間が汗臭く塩っぱくなろうとも、秋茄子は嫁に食わせてはならない。そういう意味で詠まれた和歌なのだ。
秋には稲の収穫があり、農家にとっては一族の存亡をも左右する最も大切な季節なのだから、秋茄子など食っている場合ではないのだ。
人生には二種類ある。目隠しされて銃殺される人生と、目隠し無しで銃殺される人生。その二種類だけだ。
秋茄子は銃のようなものでもあるのだ。
私の知り合いにブラックコーヒーばかり飲んでいる人がいる。多分、漫画かドラマでも見て影響されたのだろう。ブラックが本来のコーヒーの美味さだとか、能書き垂れてはチープな優越感に浸って粋がっているのだが、本当は何も分かっていないのだ。
そうだ、今日は秋茄子のアクのような飛び切り苦いコーヒーを皆で飲もうではないか。
夜の闇の深さを知らなければ、星の眩しさなど分かる筈もない。
闇が深ければ深い程、星は明るく輝く。甘いスイカに振り掛ける塩、おしるこの隠し味の塩、辛い経験や忍耐も人生の塩となる。
秋の労働を忍耐強く乗り切った者が、豊かな収穫を得て安心して年を越せる。快適なセックスライフを送る事が出来る。
ミルクの白さや砂糖の甘さを知ってこそ、コーヒーの本来の味わいを知ることが出来る。ブラックばかり飲んでいてはコーヒー本来の美味さを語れない。
だからたまには思い切り不味いコーヒーを飲めばいい。
砂糖ではなく間違えてコーヒーに塩を入れてしまえ!
塩を入れた後でその塩っぱさを打ち消す為に砂糖を追加し、砂糖と塩の混ざったコーヒーを飲んでしまえ!
そう、私の母親が丁度そういう人だったのだ。
彼女は年に一度は塩と砂糖の容器を間違えた。小学生の私にも全く素知らぬ顔で塩入りコーヒーを飲ませたものだった。
生命保険という生臭い制度がこの世に存在すると知ったのも、母親の口からだ。
「あの家はな、生命保険で建てたんやぞ!」
私が思春期の頃、母親は近所の新築の一戸建てを指差しながらそう言った。
5年程前に不慮の事故で亡くなった子供がいて、生命保険が下りたのでそれを元手にして家を建て替えたと言うのだ。
私はその子の死因をはっきりとは思い出せないのだが、多分、虫歯か水虫でもこじらせて死んだのだろう。私は死んだ子供のご両親には親切にされたし母親も何かと世話になっていた筈なのだが、新築の家を眺める母親は実に羨ましそうだった。
それはそうだろう。
私の生家は築百年とも百五十年とも言われる程のオンボロ古民家だったのだから。古過ぎていつ建てられたのかも誰にも分からなくなっていた。最早、文化財並みの古さで、今ではとても高価で庶民には到底手に届かないような太い梁や柱が使われていたが、見た目は月並みで子供の頃には何処にでも有る珍しくも何ともない間取りや外観の家だったから、誰も興味を示さなかった。
今だったら母親の命の価値よりも数倍の値打ちが有ると言っても過言ではないだろう。
だが母親はその価値を1ミリも認めず、掃除など絶対にしなかった。家中クモの巣だらけでシロアリにもあちこち食べられていた。周囲の家は一軒残らず全て建て替えられていったのだが、私の生家だけは先立つ物がなかった為に古いまま取り残されていた。周囲に新築家屋が建つ度に、母親は苦々しく憎々しく感じていたことだろう。
生命保険の話を聞いた時に、
「ヤラれる前にヤラなければ。信長に逆らったあの人のように」
私はそう思ったものだった。
とは言え小説やドラマのネタになるような大それた行動など取れるはずもない。私は単に故郷と距離を置いただけだった。大学を卒業してからは仕事を理由に滅多な事では帰らないようにした。母親とは極力関わり合いにならないよう努めた。一年以上顔を見せない事も度々で、たまに帰省してもなるべく貧乏そうに見えるよう振る舞った。車は最低十年は乗るようにした。もちろん新車など買ったこともない。実際、大した持ち合わせなどないのだが、変に勘繰られるのはリスクが高いと感じていた。
家の裏には痩せた畑があり、母親は下手糞な家庭菜園に精を出していた。農薬まみれの毒野菜ばかり食わされていたのだと私が気付いたのは、父親が死んでからだった。
父親は特別養護老人ホームで死んだ。足腰が衰え車椅子が欠かせなくなり、シモの世話も自分で出来なくなっていた。死んだのは施設に入れてから5年目で、父親が施設に入ってからは広い家に母親はずっと一人で住んでいた。
母親は9月生まれだが、死んだのも9月だった。
死んだその日も、母親は自分が育てた小さなサツマイモとカボチャの天ぷらを揚げていた。昔から母親の好物だが、決して美味いと言えるような料理ではない。火加減はいつも適当で、キッチンペーパーで油切りをするという手間も掛けない。これが芋やカボチャではなく茄子の天ぷらならば、油を吸ってベトベトなまま食卓に出され、鶏の唐揚げや豚カツならば、表面が黒く焦げてはいるが中は生焼け状態で火が通っておらず、食べれば腹を壊す事になる。子供心にも、いつかきっと食べ物のバチが当たるのではないかと私は思っていた。
台所で好物のサツマイモとカボチャの天ぷらを作ろうとしていた母親だが、材料を半分くらい天ぷら鍋に入れた時に玄関にある固定電話が鳴り出した。そして母親はガスの火も止めずに電話に出た。同年代の友達からの電話でつい会話も長くなり、それでガスコンロに掛けっぱなしにしてあった天ぷら油から出火して、台所から一気に燃え広がった。木造のボロくて古い私の生家はあっという間に崩れ落ち、報せを聞いて車で5時間掛けて私が帰って来た時には、辺りは真っ黒い木炭の残骸の山になっていた。
母親が畑で育てていた茄子やキュウリやトマトも煤だらけになっていた。煤だらけの野菜たちが、何故か自分の身代わりのように思えて仕方なかった。
母親は一旦は病院に運び込まれたが、一酸化炭素中毒で間もなく息を引取った。
100歳まで生きるのだと常々言っていて、それを聞かされる私や周囲を嫌な気分にさせたものだったが、72回目の誕生日を迎えて直ぐの意外な幕切れだった。
隣町から山奥の村に嫁いで来て丁度半世紀だった。ラブホもコンビニも信号機もなく、猿や鹿や猪や熊や狸が時折悠々と道路を横切り田畑を荒らすような山村で生活を営み、最期は自分で自分を火葬してその生涯の幕を閉じた。
「秋茄子は嫁に食わすな」という諺を最初に私に聞かせたのは、紛れもなく若い頃の私の母親だ。父親よりも13歳若く、嫁いで来たばかりの頃は近所の子供たちから「お姉ちゃん」と呼ばれて親しまれていた。当時としては大柄な体格で病気に掛かったこともなく、ママさんバレーの練習にも熱心に通う健康な「お嫁さん」であり「お姉ちゃん」だった。だが60歳を過ぎてからは股関節痛を患い、脚を引摺りながら杖をついて歩くことが多くなっていた。自虐的なことも良く言うが、全然謙虚さがなくいつも他人をバカにして面白がっている人だった。
人生とは黒焦げのサツマイモかカボチャのようなものだ。田舎の明るい「芋姉ちゃん」はいつしか食えない老婆になっていた。
私は子供を作らなかった。嫁も貰わなかった。自分の中の母親の遺伝子が次の世代に継承される事を恐れたからだ。
私の秋茄子はまだ腐ってはいないが、生焼けになっているような気がして仕方がない。私はこれからも母親の亡霊に怯えながら生きていくのだ。
おしまい
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