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読書ログ「「勤労青年」の教養文化史」

相互監視と噂が生み出される背景には、農村に「楽しみ」が少ないことがあった。愛知県西尾市の青年団に属するある青年は、噂や陰口が絶えない農村への嫌悪感にふれながら、一九五六年の文章のなかで、以下のように綴っている。

いよいよこの農村で暮さねばならないと思った時、何故自分は農村が嫌いだつたのか、農業がいやだつたのか、ふと考えて見た。すると農村には楽しみ、殊に若い人の楽しみと云うものが無い事に気がついた。私はいやな環境からぬけ出すことが出来ないのを知つて始めて自分の周囲をふり返り愕然とした。お母さん方を始め人々の話と云うものは他人のウワサやカゲロ、例えば〇子さん[=婚家で執拗ないじめにあって離縁を強いられた女性]の問題などばかりではないか。何故だろうか。これは話題を持たないから。それなら何故話題を持たないのだろうか。そこでかつての農家の婦人は本を読むひますらなく年老いて行かねばならなかったことに気が付いた。[『第二回全青研(二)-二』]

農村には娯楽も少なく、また、読書を通じて、身の回りの人間関係以外に視野を広げることも限られていた。それは、「他人の生活の凝視」へとつながった。そこから導かれる「人の噂」は顔見知りばかりの村のなかで、急速に広がるのが常であった。

「勤労青年」の教養文化史
  • つらすぎる

    • 「人間よ、 もう止せ、こんな事は」ってかんじ

    • 本当に現代日本に生まれてよかったと思える本。格差とか差別とか環境問題なんかがいろいろあるにしろ、2020年代は、ほんの半世紀前と比べても格段にいい世界になっている。つい「狩猟採集時代は1日4時間しか働いてなかったのに!」みたいなこと言って”今この時代”をsageてしまうけど、勉強したいなと思ったらいくらでも手段があり、働きたいなと思ったら(ある程度)好きなところで働け、生活コストを下げて労働も最小限にしたいと思えばそれすらも可能であり、結婚したい相手がいればその相手と結婚し、したくなければしなくてもなんとかなるという現代日本に住む我々は、何百万年単位で見ると相当な上澄みの世界で生きていると言える。特に結婚とか家督相続に関しては、100年前の日本の農家に生まれていたら早晩世を儚んでいた自信がある

先にもふれたように、『葦』(一九五五年一一月号)の読者投稿では、高校に進めずに「何て不合理な世の中なんだろう、どうしてうまい具合にいかないんだろうか」という思いにふさぎ込んでいた勤労青年が、「読書する事によって、学校では学べない事迄、はつきり知る事が出来るようにな」り、さらに「学校へ行かなくともと自信を持つ様にな」ったことを記していた。それは同様の境遇にある勤労青年たちにとって、人生雑誌が「学ぶ場」の代替になっていることを示していた。(中略)人生雑誌の読後感を綴った次の文章は、そのことを示唆している。

生きる喜びもたのしみもなく毎日を過しておりましたところ、『人生手帖』を知り、いくじのない私でしたが、何度も何度も読みかえすうちに、どうしたら生甲斐ある生活が出来るか、わかるようになり、生きていてよかった、と思うようになりました。[『人生手帖』一九五三年二月号]

「勤労青年」の教養文化史
  • 「同じ本を読む者は遠くにいる」だ(出典)この感覚はすごく好きだな

    • 身内とか身近にいる人とはわかりあえないことも、遠くにいる顔も知らない誰かとなら涙がでるほどわかりあえるという経験、ネットにどっぷり浸かったことのある人なら誰もが経験したことがあると思う。この時代にはネットはなかったけど、人生雑誌(いわゆる知識人とか教養人が執筆したり読者投稿していた硬めの雑誌)がその役割を果たしていたのだ。救いだな~

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