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東日本大震災の日 #4(韓国人の視点)


6.家族


もう夕方になりました。

夕方になってやっと父親から連絡が入りました。

津波から避難していて電話をかける余裕がなかったらしいです。

聞いたときには家族全員安心していました。

今から家に帰るから待っていてほしいと言われ母親も力が抜けたように座り込みました。


夜になりやっと父親が帰ってきました。

あたりが完全に真っ暗になっていつもの日常とは違う日常が始まりました。

どの家庭でも電気、水、ガスが止まってしまっていたみたいで、私が住んでいた住宅地は真っ暗になっていました。

何も食べたくなかった私はその日はご飯を食べませんでした。

震災の夜も余震は続き震度4くらいは当然のように何回も来ていました。

震災を経験した小学生、中学生はほぼトラウマになったでしょうね。

今は私も落ち着きましたが高校生くらいまでは少し揺れるだけでも震災の頃を思い出して怖がっていました。

その日はろうそくの火を明かりに使って寝ていました。


次の日の朝。

さすがに夜食べなかった分お腹がすいていた私に人生一うまかった料理が出てきました。

いまだにあの味を私の体は覚えています。

家族全員あの時の飯はうまかったと言います。

そう。冷凍チャーハンです。

たかが冷凍チャーハンでしたがお腹がすいていたというのもあり、B級グルメがA級グルメに進化した様でした。

家も徐々に片付けていき電気も水も通るようになりました。

徐々に普段の日常を取り戻していきました。


7.再開


たしか2週間くらいで学校は再開しました。

校舎は昔寮だった場所に机を置いてそこを校舎代わりとして使いました。

黒板はないため全教室にホワイトボードを置いて勉強しました。

今でも私の母校は昔寮だった場所を学校として使っています。

現在はリフォームされ学生たちが走れるくらいは大きな部屋になっています。

ホワイトボードも今は黒板に変わっています。


学校が再開してからまず最初にしたことがあります。

それは旧校舎とのお別れでした。

私達学生は危ないですが、先生と一緒に旧校舎へ入りました。

旧校舎は無残な状態で窓ガラスは全部割れていましたし、廊下は人がすり抜けれるくらいの大きなひびが入っていました。

教員室の壁は壊れていましたし私達が勉強していた教室の黒板は壊れていました。

業者からは「いつ崩れてもおかしくない状態なので入るのはいいですが早めに出てきてください」と念押しされるくらい危ない状態だったらしいです。

当時私はそんな状態なら入りたくないと思っていましたが、今思うと入れてくれた先生達に本当に感謝しています。

入りたくても入れなかった卒業生達に比べたら最後の挨拶を出来た私達は幸せ者でした。

旧校舎とのお別れを済ませた後、卒業生の私達は卒業式の準備をしました。


続きはまた次回書きます。

読んでいただきありがとうございます。

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