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東日本大震災の日 #3(韓国人の視点)


4.その後


地震がある程度落ち着いた後食堂の横で焚火を作り学生、先生達、食堂のおばちゃん達で暖まりながら親が迎えに来るのを待っていました。

私もでしたが学生達は家族の心配をしていました。

焚火をしながら先生達はニュースを見ていました。

「大きな津波が来ております。できるだけ高い所に避難してくだ・・・」

小さく私の耳にはそう聞こえました。

津波。

私のお父さんは当時海沿いで車の整備士の仕事をしていました。

(お父さん。大丈夫だろうか。)

またいつ大きな地震が来るかわからない恐怖、家族を亡くしてしまうんではないかという恐怖。

本当に体験したことない経験でしたし、もう二度と体験したくないですね。


震災から1時間ほどでほとんどの学生の親が迎えにきました。

私の母親も迎えに来てくれました。

家族の顔を見た瞬間に私は少し安心しました。

その後の記憶が少し欠けているくらい安心しました。

本当に人間安心すると記憶がスッと消えるんですね。

当時母親が迎えに来てくれた瞬間を覚えてはいますが、母親が何を言っていたかは思い出せません。

きっと心配の言葉をかけてくれていたんでしょう。

当時の私は怖すぎて逆に涙は一滴も出ませんでした。

周りの学生達はほとんどが泣いていました。

先ほどまで「大丈夫だよ」とずっと声を下級生たちにかけていた中学生達も耐え切れなくなったのか・・・。


5.帰り道と家


とりあえず母親の車に乗り、家へと戻りました。

帰り道は地獄絵図のようでした。

毎日通る通学路にあった塾の窓ガラスはすべて壊れ、煙が出ているところもありました。

母親が車でいつも通る道を通らなかったとき「今日はこっちから行くの?」と私は聞きました。

どうやらいつも通る道は地面が陥没したらしく車では通れなかったらしいです。

後日見に行ったら人が20人は軽く入るくらいの大穴が開いており、目を丸くしました。

家についた私はとりあえず居間へと向かおうとしたら「そっちはガラスが割れていて入れないからこっちに来なさい」と母親に言われました。

父親の部屋に入ったら兄と姉がそこにいました。

二人は無事でよかったとホッとしていました。

私も大丈夫だったかと安心しました。

でも仕事に出ていた父はまだいませんでした。

当然海の方まで言っているのですからまだ帰ってくるまで時間がかかるはずです。

「お父さんは大丈夫かな。」そう言ってしまいました。

そんなの家族全員考えていることだから今それを言うなと当時の私に言ってやりたいです。

ただ不安を大きくしてしまうだけなのに。

母親はひたすら電話をかけていました。

それを見る私達3人はどうしようもなく不安でした。

不安な時間が過ぎ、もう夕方になりました。


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