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夜中の独り言〜歌詞について

僕は日本の曲を聴くとき、歌詞を重視することがほとんどで、考えることも多い。

悪いこととは思ってないが、結構面倒くさい奴と思われることも多いだろう。

何でそうなってしまったんだろうか。ちょっとだけ振り返ってみる。

僕は大学生の時に1年休学した。ゼミの教授には「小説を書くので1年休みます」と伝えた。

バイトするか寝るか本読むか小説書くか。
或いはバーに1人で行くか。
聴く音楽はほぼストーンズの1stのみ。
そういう1年だった。

その1年が今の自分の価値観の根っこを形成していることは間違いない。

22、23歳の頃の自分は、ビート・ジェネレーションの作家たちに憧れた。でも結局馴染めず、シリトーの「長距離走者の孤独」やカミュの「異邦人」が1番しっくりきたような覚えがある。もちろん翻訳されたものを読んでいたので、言葉そのものの表現とは違う、物語の根底というか背景というか、そこに横たわっているスピリットとでも呼べるものがしっくりきたのである。

そして、自分自身はと言うと、小説は1年書き続けたものの、自分で納得できるものは生み出せなかった。

そして、諦めるように詩を書くようになった。
最初はパクりみたいなやつしか書けなかったが、そのうちになんとなく自分自身のスタイルを把握できるようになっていった。

時を同じくして、子どもの頃に触れていた昭和の頃の曲、特にアイドルではあったが、再び触れることがあった。
そして、そこには新たな感動があった。

あの頃の作詞家の方は本当に「作家」だったと思う。
一曲の歌詞の中で時間軸を自由に操り、感情や具体的風景だけではなく、色や匂いを感じさせ、しかもそれは直接的な表現に頼っていない。

スピリットとはまた別の次元で、そこには物語を支える日本語の表現があった。

当時のアイドルたちは、各々の個性にあった方法でその物語を表現した。或いは、演じた。歌が上手い下手とは別の次元で。
拙い歌唱が物語を引き立たせることも珍しくなかった。
もちろんそれは制作側の狙いだったであろう。

そういうことに気づいてから、再びきちんと歌詞を聴くようになった。そして自分の詩作スタイルを把握し、コントロールできるようになったのもその頃。

ここからはあくまでも個人的に思うことなので、不快に思われる方もいるかもしれない。クレームは受け付けません。

いい悪いの話ではないが、昨今のヒット曲のほとんどがそうである日記のような歌詞と、当時の歌詞は根本的に違うのではないか。
一つの歌詞を紡ぐ作家のバックボーンは計り知れない。

そんな深く考えなくても、別にいいんじゃない??とも思うけど、逆に「別にいいんじゃない??」と思っている人の作品に僕は感動することはないだろう。

今は表現する立場ではないので、聴く側として感性を鈍らせないようにしたいと思うだけだ。

敢えて言うが、日記みたいな歌詞を書く方も書く方だが、それで感動する方も感動する方だと思う。寂しいなと思うし勿体ないなと思う。
そんなに簡単に涙流していいの??と。

最近では地元の若いミュージシャンと話すことも多い。

このあたりのニュアンスは伝えたいなと常々思う。
余計なお世話かもしれないが。

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