ピクニックパパの都内緑地めぐり
実利的テーマ ピクニックvol.1
私は幼い娘を持ちます都内在住の30代男性です。
趣味の一つにピクニックがあります。
ピクニックの定義は簡単です。
日中に外で軽食を食べながら季節を楽しむことです。
単純ですが平和でなければこんな発想は起こらないはずです。たとえば戦時中、犯罪が蔓延る世、常に激務でストレスに見舞われ心に若干でも余裕がなければピクニックなんて考えつかないと思います。
起源はヨーロッパ貴族の遊びであったようですし、日本でも上流武士の楽しみであったほどで、一般人がピクニックに行けるのは贅沢の極みであり豊かなこの時代が許した幸福の象徴と言っても差し支えありません。
きっかけは
前回の投稿の理由の他に、兼ねてから季節を感じながらその風の中に身を投じることが多くを求めず日々を楽しむことだと思っていましたし、インドア派の私が遠出することなく、疲れることなく、お出掛け好きの娘を満足させる為にも休日に多少のアウトドアは必須であったことです。
興味があることは
歴史、アート、読書、美食、ファッション、などとインドアな事ばかりなのですがそれとピクニックをリンクさせながらオリジナルの趣味にしていければいいなと思っています。
ピクニックにはシーズン毎の楽しみがあります。季節の植物を観察しながらベストな場所に陣をとり早起きして作った軽食にも時期の食材を加えて、、
さらに可能な場所であれば食事と風景に合ったワインを楽しむといった感じです。
人々が集う桜が咲き乱れる時期にそのお祭りモードの一部になる事も楽しみではありますし、そういった場所をテーマとする場合もありますが、私のピクニックは基本として普段の情景に潜む非日常性の様なものを求めているので、盛り場は少なめです。基本は徒歩か自転車で移動するので、荷物も最小限ですし、皆様も私と同じ場所に来るというよりはお住まいの近くの公園でやってみる事をお勧めします。
図らずとも妻が休日出勤の日にピクニックに行く事が多いので娘と二人で行く会が目立ちますが、たまに妻も含めて行く場合はチョイスする場所も行き方も大きく異なりますのでその違いも楽しんで頂ければと思います。
それでは、私の趣味が入り混じったピクニックに出かけましょう!
今はさすがにまだ寒いので去年までの書き溜めていたものを。
2019 春、戸山公園 BC(コロナ前) 1年
5月下旬、娘と2人で
戸山公園と聞いてすぐに場所が浮かぶ人は多くはないだろう。新宿区にある都内屈指の規模を持つ公園だが、整備がされていない原生林のようなエリアが多かったり、木が大き過ぎて木漏れ日が見込めず芝生も少ないのでまずわざわざ遠方からここをめがけてピクニックに来る方は少ない事だろうと思う。 1回目の連載なのだからもっと人気があるエリアから書くべきとも思ったが、一番近くにある大型の公園なので、方向性を決定付ける意味も込めてこちらを選ばせて頂きました。
ここからはこの界隈の歴史を紐解きます。
明治をむかえるまではこの地には御三家尾張徳川の下屋敷があった。
下屋敷
江戸時代、各大名家はその石高や家格に応じて江戸城下にいくつかの屋敷を与えられ、自らの正室を住まわせ(人質としての役割)参勤交代の際江戸を訪れた際の住処として機能した。江戸城に距離が近い順に上屋敷、中屋敷、下屋敷と呼び、全てを有する大名の地位は一般的に高めと考えて間違いない。その跡地は大使館や公園、国や皇族の要所に当てられたることが多い。古地図を読み解きそれを知りながら散策することは私にとって非常に重要である。
ちなみに余談の余談になるが同じ尾張徳川の上屋敷は1975年に三島由紀夫さんが割腹自殺をした市ヶ谷駐屯地があった現防衛省である。こちらはたしか「坂の上の雲」にも陸軍基地としてでてきますね。
尾張徳川と茗荷
尾張徳川と言えば壮大な堀と金の鯱鉾で有名な名古屋城が居城で、御三家の祖となる家康息子達の中で年長者である徳川義尚がそのおこりである。御三家筆頭の家柄である事からさぞかし豪華な名残があるかと思いきや、、鯱鉾の鱗1つなく、シンプルな立て看板が説明少なく立つばかりである。 明治に入り大隈重信がこの地の北側に早稲田大学をつくるまでは農村が広がる土地であり、特にも茗荷は江戸一の生産量と品質であったと近くにある穴八幡神社の立て看板に書いてあった。 「残念ながら今は1軒たりとも茗荷を栽培する農家はない。」との一文は感慨深いものがある。
こちらの神社の伝統として毎年行う流鏑馬の場所を提供するのも同公園である。
江戸時代から現代までをワープする様な形式でその土地における過去のエピソードを紹介するやり方が世にはが多いが、そのあと関東大震災後、戦後にどうなったかを調べる方は少ない。しかし、私はその数少ない側に入っております。めんどくさくてすみません、、もう少し続けます
江戸幕府が幕を降ろすと、、ん?幕を降ろすか?(本来は遠方で陣をとった場合の臨時政府、幕の内側の政府といったニュアンスの「幕府」と言う言葉であると記憶しているので、それが終わったのだからこの場合「江戸幕府が幕を上げる」と書いたほうがの正解かもしれません、、詳しいことは分かりませんが、、他の文化との融合が成されたと言う意味でも開、だから明治の幕開けと言う言葉を使いたがるのかもしれません)どっちでもいいことが書いていると気になる、、
するとこの広大な敷地は大日本帝国陸軍の所有地となります。その後関東大震災で江戸の名残の門や建物は倒壊、解体されます。軍の施設の中でも医療研究に特化した部署があったとされていて、第二次世界大戦中はナチスのように人体実験が行われていたのではと噂されます。その名残なのか国立医療研究センターや感染症研究所などが公園に隣接してます、、東京大空襲の被害に見舞われ、終戦をむかえ日本軍が無くなると米軍はこの土地に自らが東京に在住する為の住宅を建設させます。その後返還されますが、利用価値を模索しながら公園となり(動物園をつくる案などもあったようです) 米軍住宅あとはのちに戦後初の鉄筋コンクリート造り団地となり現在に至ります。
現在戸山公園は戸山団地と一体化したような形となっており、公園としてのスペースと住宅が混在していてどっち付かずの雰囲気があり整備されていない場所もあることから同じ元米軍住居地の代々木公園と比べても景観が良いとは言い難く、大日本帝国時代の冷んやりする噂を聞きつけて心霊スポットして扱うエリアもあったりするらしいので大型公園であるのに人気公園の仲間入りが出来なかったのでしょう。
ふー いつになったらピクニックするんでしょうね。笑
安心してくだい。私もそう思いながら書いています。
公園内にある最も標高が高く、昔富士山が見えたという箱根山に娘を肩車しながら登った。(山手線内で最高峰の人工築山)
山頂の景色を見渡しながら瞬きをして、上記した歴史の移り変わりを瞼の裏に転写しながら見渡すとどこからか茗荷の香りがしたような気がした。
特に早起きはしなかった。家を出たのは11時頃、片手に収まる荷物には綿製のシート、ハンカチ、ティシュ、手作りサンドイッチとフレッシュのオレンジをたっぷり入れたアイスティを水筒に。
気温は25度、いわし雲が薄っすら張っていて柔らかに吹く春風と共に気持ち良さそうに青空のキャンパスを泳いでいた。こんな日は、食事の前にキンキンのシードルなんかがあったら最高。
自宅から徒歩で移動し国際医療研究センターがある側から入り、咲き出した様々な色の紫陽花をみながらじゃぶじゃぶ池を目指した。保育園でたまにこちらの公園に遊びに来る娘に案内を頼んだ事もあり、よりゆったりとした時間が流れた。4歳児は滑り台やらブランコを見つけるとテンションがぶち上がる習性があるので、その様なものを見つける度に遊んでいました。
先にレジャーシートを広げてる人がいればなんとなくそのエリアで自分達の場所を探すのが初めてピクニックをする場合での簡単な流れだが、この日は先客が居なかったので散策して川が流れるエリアで良い場所を見つける事にした。
最初は程よく腰掛けられる岩場があったのでそこに決めたが、パートナーがとっても嫌がり別の場所を探した。恐らく日差しが無いが嫌だったのと、岩が硬いくて座りたくなかったのだと。
坂を登った先にわずかに斜面ではあったが少し開けた場所に芝生があり、そこにシートを敷いた。決定権を持つパートナーも喜んでシートに寝転んでいた。
やっとランチにありつけます。
サンドイッチは3種類。
1種目はシンプルにたまごサンド
厚切りベーコンをキューブ状に切りカリカリにして加えた。パンは柔らかく分厚い食パン。
2種目は土地を感じながら
自家製のアボガドペーストをパンに厚めにぬりつけ、そこにスモークサーモン、櫛形に切ったチェリートマトを並べ、ベランダ育ちの茗荷で作ったピクルススライス、ディルを散らしてパテドカンパーニュでサンド。
3種目は季節を
焼きソラマメをオリーブオイルとミント僅なシェリービネガーでマリネ、それをパニーニ用の柔らかいパンにオリーブオイルをたっぷり染み込ませながら挟み、そこにペコリーノチーズ(羊乳のチーズ)のスライスとコッパロマーナ(生ハムの一種)を忍ばせた。
ちょいと大人っぽい具材だったので娘が食べられるか心配ではあったが、普段から色々食べさせている甲斐がありどれも喜んで食べていました。 タマゴサンド中心に。
その後すぐにお眠りになったので、私は春風が柔らかく吹く公園でしばしば読書をして過ごしました。
有名な場所ではなかったので説明、前振りが少し長すぎました、、次回はもう少しシンプルに、、